Paul Anderer教授(コロンビア大学)講演会
『日本学者の地図-Mapping a Life in Japanese Literary and Cultural Studies』

本講演会では、本拠点の重要連携先であるコロンビア大学を退職されるポール・アンドラ教授に、約50年にわたる日本文学・文化に関する研究活動についてご講演いただいた。会場には60名を超える国内外の研究者、学生、一般参加者が集まった。

河野貴美子本学教授による開会の辞では、アンドラ教授をはじめとして、コメンテーターのディヴィッド・ルーリー コロンビア大学上級准教授、角田拓也 コロンビア大学助教授、北村匡平 東京工業大学准教授、本講演会の企画・運営に関わるメンバーが紹介された。

はじめにアンドラ教授は、本講演を自身の「身の上話」と位置づけて笑いを誘い、和やかなムードで講演が始まった。

フィラデルフィアの一般的な家庭に生まれ育ったアンドラ教授には、日本文化・文学を学ぶ土壌はなかったという。日本との最初の出会いは、小学校のレポートでフランシスコ・ザビエルについて調べた時で、日本文学を読む機会はなかった。テレビで日本の神風特攻隊の映像を観たり、太平洋戦争に従軍した隣人が旭日旗を持っていたり、ラジオがSONY製だったりと、日本に触れる機会はありながら強く意識することはなかった。日本人や日系アメリカ人と出会う機会もなく、有色人種に対する白人の差別的な言葉を聞くこともあったが、警官だった父から、恐れがそのような意識を招くのだと教わった。父は病気で仕事を辞めたため十分な学費はなかったが、アンドラ教授に大きな示唆を与えたのは父の存在だったという。

少年時代は良い成績を収めたが推薦された英米小説しか読まず、スポーツに明け暮れながら受験勉強にも精を出し奨学金を得た。文学よりも外国語に関心があり、ホーマーやエウリピデスなどを原著で読み、言語学を通して思考を鍛えた。とくにギリシャ語の表記への関心が、後に仮名や漢字の学習に活きていく。

1967年にノートルダム大学に入学し、ゼミではキェルケゴールからサルトルまでの実存主義文学を学び、小説や演劇、映画に触れる機会も増え、中でもウィリアム・フォークナーの小説「響きと怒り」(1929年)、フェデリコ・フェリーニの映画「8 1/2」(1963年)に心を動かされた。その頃大学が日本への留学プログラムを創設し、アメリカ以外で学ぶ必要性を感じたアンドラ教授は早速応募した。陸海軍に入隊しベトナムへ送られる同世代がいる中、留学できることをありがたく思ったという回顧は、まさに世相を表すものである。

1968年、19歳――中上健次「十九才の地図」(1973年)を想起させる――で〈賭け〉に身を投じ、ザビエルが設立に携わった上智大学へ留学した。1964年に開催された東京オリンピックの選手寮を改装した神宮前のアパートに入居した後、伊豆の中木へ出かけた思い出のうち、特筆されるのはボートで沖へ出た際に岩に衝突し、転覆してしまった事件だと振り返る。のちに小説家の安岡章太郎に出会い、「海辺の光景」(1959年)をいかに尊敬しているか語ったが、この〈海辺の事件〉については話さないでいたという。

留学生活では、地下鉄や自転車を活用して東京を縦横に〈マッピング〉した。中でも、丸ノ内線が四ツ谷駅で地上に出る際、一気に明るくなる光景こそ自分の「原風景」だと懐かしんだ。また上野のアメヤ横丁を訪れたのち、坂口安吾を通して、それが戦後の闇市を起源に持つと知るなど、自らの体験と戦後史を重ね合わせていく。寺山修司が「書を捨てよ、町へ出よう」(1967年)を書いたように、アンドラ教授にとって、日本文学への関心と東京の〈発見〉は結び着いていた。

とりわけアンドラ教授を惹き付けたのが、60年代末の新宿文化である。まず紀伊国屋書店は、地球上でもっとも〈本の引力〉を感じた場所だという。大学の授業を契機として、「平家物語」や能をはじめ、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫ら近代文学の作家に触れるようになる。「夏目漱石は有名な小説家です」という、授業で何度も繰り返した言葉により「こゝろ」(1914年)へ導かれたことが、のちにエドウィン・マクラレン氏や江藤淳氏との関わりに繋がった。紀伊国屋書店では日本文学の翻訳やペンギンブックスの渉猟も楽しんだ。授業でテネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」(1947年)を読んでいたので、さらにユージン・オニールや、イプセン、チェーホフらの戯曲に関心を抱いた。日本にいながら海外文学を読むのは矛盾するようだが、アンドラ教授にとっては、空手ではなく大好きなラグビーに日本で取り組むのと同じことだった。

学びを通して、明治時代以降、日本の作家や読者が生み出した文化の恩恵をいかに被ってきたかを実感するが、狭義の「日本語」そして「外国語」とされるものを迅速かつ確実に理解するのは容易ではないことを認識し始めた、と回顧した。

アンドラ教授を惹き付けたもう一つの場所は、新宿の喫茶店・風月堂である。映画研究者のドナルド・リチー氏が上智大学を訪れた際、映画だけではなく、新宿のアンダーグラウンド文化をも紹介してくれたという。瀧口修造や吉増剛造、唐十郎ら、戦後日本を代表する前衛芸術家が集うトポスの中で、アンドラ教授も学問に勤しんでいたのである。

修士論文のテーマに志賀直哉を選んだというアンドラ教授は、志賀の短篇小説「焚火」(1920年)における語りと、親友の事故死を知った体験を重ね合わせる。またその頃、はじめて鑑賞した黒澤明の映画「生きる」(1952年)におけるブランコのシーンを想起しながら、我々は読むものや観るものを自ら選ぶようだが、時折偶然に脳裏に浮かんでくることもある――人生の状況に応じて、物語は我々の求めに答えるように、慰めや希望をもたらすために我々を選ぶのだと語った。

1969年に帰国した後はミシガン大学へ留学し、エドワード・サイデンステッカー氏や、ウィリアム・シブリー氏と共に学び、卒業論文のテーマには太宰治「人間失格」(1948年)とチェーホフ「ワーニャ伯父さん」(1897年)の比較研究を選んだ。この頃の自身を導く光となったのは、東京滞在中に読んだ漱石「こころ」だった。漱石「道草」(1915年)や志賀「暗夜行路」(1921年~1937年)の翻訳を手掛けた日本学者のエドウィン・マクラレン氏の研究に感銘を受け、シカゴ大学に進学する予定だったが、1971年に父が急死。家族のために進学を諦めかけたが、マクラレン氏の強い誘いによって決断し、彼のもとに学んだ経験が今の自分を形成していると感謝した。

アンドラ教授にとってもう一人の恩師が江藤淳氏である。江藤氏は批評家かつ知識人としての強い信念と、教師としての寛大さ、インスピレーションに満ちた人物だったという。また1975年には江藤氏の自宅で柄谷行人氏に出会い、長い交流が始まった。アンドラ教授の研究対象である小林秀雄のスタンスと類比しながら、江藤氏、柄谷氏の批評家としての偉大さを評した。

 

アンドラ教授の50年にわたる活動の成果は、教え子の多くが世界中で研究・教育に従事していることにも表れている。またコロンビア大学ではエドワード・サイデンステッカー氏やドナルド・キーン氏をはじめ、ハルオ・シラネ教授、鈴木登美教授、ディヴィッド・ルーリー上級準教授らと協働する機会を得たこと、角田柳作氏を介して早稲田大学と強固な協力関係を結んだこと、それをリードしたキーン氏やウイリアム・T・ドバリー氏、十重田裕一本学教授への感謝を述べた。またシカゴ大学で出会い人生を共に歩んできたミア夫人、そして50年前に〈旅〉の出発地となった東京の街へも感謝を表し、講演を終えた。

アンドラ教授自身の個人史と、亡くなった父や親友、恩師への哀惜に、戦後社会史・文化史を交差させる回顧は、まさに著書Kurosawa’s Rashomon: A Vanished City, a Lost Brother, and the Voice Inside His Iconic Films, 2016.(『黒澤明の羅生門―フィルムに籠めた告白と鎮魂―』北村匡平訳、2019年、新潮社)の手法を彷彿とさせるものだった。

コメントでは、まずディヴィッド・ルーリー上級准教授が、教え子かつ同僚としての観点から、コロンビア大学と早稲田大学の協働に触れつつアンドラ教授の功績を振り返った。アンドラ教授の著書、Other Worlds : Arishima Takeo and the Bounds of Modern Japanese Fiction, 1984.(『異質の世界―有島武郎論』1982年) およびLiterature of the Lost Home:Kobayashi Hideo-Literary Criticism, 1924-1939, 1995. そしてKurosawa’s Rashomon. それぞれの画期性や、コロンビア大学で様々な役職を務め教育面でも多大な貢献を果たしたことなどを、自身がアンドラ教授に学んだ体験を交えて語った。

角田拓也助教授も同様の立場から、アンドラ教授による「黒澤ゼミ」の重要性を、記号学から現象学へと変遷してきた映画研究の方法と比較しながら強調した。また、ゼミでも議論した黒澤明の研究が書籍としてまとめられ、中国語や日本語に翻訳され――日本語版には映画監督チャン・イーモウの序文が付された――、再度経験できるのは大変貴重なことだと述べた。

また、Kurosawa’s Rashomonの訳者である北村匡平准教授は、アンドラ教授との「不思議なご縁」――東京工業大学には江藤淳氏が勤めており、アンドラ教授が研究生として学んでいたこと、自身の著書『美と破壊の女優 京マチ子』(2019年)執筆と翻訳を並行して行い、京マチ子が亡くなった際は、『羅生門』の主演女優であることからKurosawa’s Rashomon に触れながら追悼文を認めたこと、訳者に推薦してくれたのは著書に帯文を寄せた映画研究者の四方田犬彦氏だったこと――を踏まえ、同書の映画研究および日本文学・文化研究に対する意義と革新性を論じた。

質疑応答では、北村准教授が提示した「高解像度の批評」という言葉に関する質問があった。現代ではデジタル技術の発展により細部まで生き届いた研究が可能になり、より正確に客観性を担保できるようになったと北村准教授から応答があった。

次に北村准教授がアンドラ教授へ、今後の研究プロジェクトの展望に関して問いかけた。アンドラ教授は、本講演で語った60年代の文化史と個人的な体験をさらに掘り下げること、また江藤淳氏による50年代の批評に関心を抱いていると答えた。

最後に、李成市本学教授から閉会の辞が述べられた。李教授はまず、司馬遼太郎によるアンドラ教授評を紹介した。司馬は『街道をゆく 三十九 ニューヨーク散歩』(1994年)で、「むこう側の歩道から道路を突っきってやってくるアンドラ助教授〔注:1985年当時〕を見るのがすきだった。(中略)眉が秀でたあたり、声をあげたくなるほどいなせな感じで、唐突だが、江戸っ子の加賀鳶を連想した」と書いたという。「加賀鳶」とは〈江戸の華となるような男〉の意だが、講演のスライド資料で若き日のアンドラ教授を見て、司馬の見事な形容を実感したと語った。また李教授はアンドラ教授の有島論に触れながら、文化の中心にいては見えない世界を、周縁や境界から開示していく研究方法の意義深さを語り、再度謝辞を述べて講演会は閉幕した。

■イベント概要

日時:2019年6月21日(金) 16:30-18:00
会場:早稲田大学戸山キャンパス33号館3階第1会議室

講演者:ポール・アンドラ(コロンビア大学東アジア言語文化学部教授)
開会の辞:河野貴美子(早稲田大学文学学術院教授)
コメンテーター:
ディヴィッド・ルーリー(コロンビア大学東アジア言語文化学部上級准教授)
角田拓也(コロンビア大学東アジア言語文化学部助教授)
北村匡平(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授)
閉会の辞:李成市(早稲田大学文学学術院教授))
司会:由尾瞳(早稲田大学文学学術院准教授)、金ヨンロン(早稲田大学高等研究所講師)
オーガナイザー:十重田裕一(早稲田大学文学学術院教授)
コーディネーター:佐藤未央子(早稲田大学研究院客員講師)、塩野加織(早稲田大学准教授)

主催:スーパーグローバル大学創成支援事業 早稲田大学 国際日本学拠点
共催:早稲田大学総合人文科学研究センター 角田柳作記念国際日本学研究所