ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNAL後者がアイステーシスの原初的な経験の必然的展開であるということである。つまり感性的直観としての知覚自体の固有性を解き放つこと、たとえば「見る」という働きでいえば、この日常的生において、何かのために見るのではなく、見ること自体を自己目的として、ただ単に「無関心」的に見ること、それが美的なものの根底にあり、美的なものを成立させているのではないか、ということである。ところでこのことはまた、アイステーシスとしての知覚を、単に対象や物にかかわる次元での注意や「気づき」としてだけ考えるのではなく、それを超えて、あくまで超越論的次元での「反省」とみなす考え方に通じている。日常的「意図」と「関心」の空間には属さないこの反省的まなざしは、ここでは、何らかの客観的な対象認識を遮断し、そのような対象経験がなりたつ構造そのものを問うことへと向けられている。つまりこのとき、対象へとかかわる「超越的」な関係を超えて、その対象が対象としてたち現れることを可能にしている「超越論的」地平が、つまり世界が、主題化されることになる。したがって超越論的とは、本論では必ずしも哲学的反省に限定された術語ではなく、むしろ現象学的・哲学的思考と類比的に考察されたアイステーシスの経験に対しても適用される。いいかえると、わたしたちと物との交渉をエポケーし、物の存在の背景にある意味地平(生活世界)を露わにするという一種の態度変更が肝要であり、その点を指してここでは超越論的という語が用いられているのである。こうしてわたしたちの知覚とは、たとえば風の音という「物」のたち現れを聴き取り、分節化する「気づき」の経験である。しかも、物の現れは単独の孤立した現象ではなく、相互に連関しあったさまざまな意味の網目を構成し、わたしたちの生きる日常世界を指示している。世界は、わたしたちと物の出会いに先立って、意味の地平としてすでに開示されていなければならない。そしてそこからさらに、この世界を世界として可能にしている時間性が、たとえば「秋」という季節のおとづれの内に、気づかれる(驚かれる)のである。美的な、あるいは詩的な経験とは、こうした気づきを際だたせ先鋭化したものにほかならないともいえよう。このようにアイステーシスの経験から生活世界の問題へと遡及的に問いすすめていくなかで、本論は二〇世紀の現象学的探求のなかで得られた世界概念とその構造に関する議論を検討していく。つまりたとえば風の音に「驚く」というアイステーシスの経験は、自明性のうちに埋もれて隠された生活世界を露わにするために、広い意味でエポケーと名づけられた態度にとって導きの糸としての役割を果たしうることが示されることになろう。論述の流れとしては、大きく以下の局面に分節化して議論をすすめていきたい。1.まず感性的直観としての知覚の原初性・明証性について。フッサールの『イデーンⅠ』の時期において一定の完成をみた知覚論から、後期の「受動的綜合」のテーマまで簡単にたどり、2.そこからさらに『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(以下『危機』と略記する)で展開された生活世界の概念を考察する。3.つぎに美的な知覚経験としてのアイステーシスについて。「無関心性」の概念に着目しつつ、とくに現象学におけるエポケー(超越論的還元)との連関に関して考察したい。4.最後に、ハイデガーの世界内存在の概念に触れ、現代世界にあってアイステーシスのもつ意味を展望する。1.知覚経験の原初性まず『イデーンⅠ』において確立された「古典的」ともいうべき段階の現象学のなかで示された知覚経験について概観しよう。知覚とは、何か存在するもののもとにあって、志向的にそのものと関わりつつそれを露わにしているわたしたちの在り方、いわゆる感性的直観のひとつであると、さしあたり一般的に考えることができよう。この場合「直接に見ること」としての直観は、現象学の立場において、超感性的な範疇的直観や本質直観までふくめたきわめて広範な働き、ほとんど意識や志向性の概念と重なりあうような開示作用と考えられているが、ここでは「感性的」直観のみに限定するならば、それは、記号や写像など間接的表象ではない、そのもの自体の本源的(originar)な直接所与性のことであるとされる(『イデーンⅠ』§43)。知覚はさらに、生まのありありとした仕方で(leibhaft)端的に対象を現前化するという点で、同じ感性的直観でも、想像や想起や予期から区別され、ある特権性があたえられる。つまりフッサールによってくりかえし強調されているように、知覚経験とは、そこにおいてはじめて明証性が見いだされ、認識が最終的にそこに根拠づけられるような源8