ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
- ページ
- 11/230
このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている11ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている11ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
秋来ぬと風の音にぞ泉、たえずそこへと立ち還るべき直接経験の場なのである。さて、それではこのように優越的地位をあたえられた知覚は、わたしたちの意識においてどのように現象するのだろうか。そもそもまず、わたしたちの前にくりひろげられる知覚の風景にあって、さしあたりわたしたちにあたえられるのは、感覚印象の多様な現出であり、たとえば物の或る側面、アスペクト、射映(Abschattungen)でしかない。あるいは、具体的にいえば、色、香り、音等々の無限に多彩な表情でしかない。にもかかわらずそのような感覚体験をつらぬいて、かならず或る経験の地平において同時的に、同一にとどまるもの、意味的ノエマがあたえられている。たとえば眼前に机があるとして、わたしはそのまわりを動いたり、頭や視線をたえず変化させることで、机の諸側面をまなざしに収めつつ、全体として間断なく変転する知覚の風景を手にいれる。けれどもそのときわたしの意識にたしかにたち現れているのは、変化する感覚印象の戯れとともに、連続的に、生まのありありとした姿で現前している同じひとつの机である。このとき机は、それ自体まったく不変化のままにとどまる同一性を保持している(『イデーンⅠ』§40)。逆にいえば、自己同一的でありつづけるものについて、その連続性と統一性とが確証されうるような、いかなる知覚経験においても、多様な現出と射映の豊かな系列が本質的・必然的に属しているということである。知覚のこのような本質性格は、のちに見るように、エポケーないし超越論的還元と名づけられた操作によって初めて見えうるようになるのであるが、ここでさしあたり重要なのは、知覚経験に必然的に伴う両面性を認めることである。そしてこの点こそが、現象学という哲学的態度の理解にとっておそらく不可欠の意味をもっているように思われる。つまり一方で現象学とは、どこまでも「本質学」として、この世界のロゴスを記述することを使命とせざるをえないわけだが、他方でこの学は、それらを貫いて本質が直観されるような無限の射映の現れを認める立場でもある。フッサールの現象学的な知覚論にとって、直接経験にたち返ることがつねに求められ、世界の構成にとって基礎的な役割が知覚にあたえられたのだとすれば、それはつまりアイステーシスという原初的な経験の次元が、いわば充実されるべきリアリティの土台として決定的な意味をもちつづけたということであろう。その際、感性的直観としての知覚の役割は、意識経験における対象の意味的構成の働き(意味付与作用)において、空虚な意味志向を充実し、本源的な明証性をもたらすという点に求められた。つまりフッサールにおいて知覚とは、机なら机という物として、意味的に構成された現出者を把握することであると同時に、それが物のありありとした所与性において充実されていること、つまり感覚の多様な現出によってあたえられていることの直観でもある。物は意味をはじめから胚胎しつつ、だが同時に自体的に現出している。このことが、物の知覚の構造上切り離せない一体性において直観されるという点が重要である。だからフッサールが知覚や想起をめぐる問題系をときに「感性論」と呼ぶとしても、それはカント的な感性論(Logikに先立つ時空間論としてのAsthetik)ではない。むしろ感性的直観において、多彩な射映を通して自己同一的なものがいかにあたえられるのかが中心テーマとされるのである。この点に、超越論的「観念論」(つまり「イデア主義」)を標榜しながら、ドイツ観念論をはじめ、従来の形而上学の立場とは一線を画する現象学の「現代性」がある。あるいは、あえていえば現象学のこのような本質性格こそ、現代における哲学なる営みの可能性そのものでもあるのではないか、と思われる。したがって現象学の展開において、知覚をめぐる感性論的主題は、形而上学において回避されがちであった「身体」や「時間」の問題へと必然的に向かい、豊かな成果を生みだすこととなる。たとえば、先に目の前の机に関して述べたことから明らかなように、ある物の多様な現出と射映を可能にしているのは、動きまわって位置を変えたり、頭を動かしたり、視線をさまよわせたりする身体運動にほかならない。この「身体運動とともに生起する知覚」は、後期フッサールによって『受動的綜合の分析』等でキネステーゼと呼ばれて主題化されたが、さらに同じテーマはメルロ=ポンティの『知覚の現象学』に受け継がれることにもなった。また、対象を目の前にありありと現前せしめる「知覚の場」は、過去把持と未来予持という厚みをもった「現在」という内的時間意識によって初めて可能になることも、知9