ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
秋来ぬと風の音にぞめるかもしれない。そのとき、「いまここ」において感じられる空気の質感、冷ややかさや湿り気、「風の音」や「虫の声」といった対象は、一方で諸感覚のさまざまな射映においてあたえられながら、しかし他方で、ノエマ的意味として、周縁に未規定な暗がりをはらんだまま連関をなし、世界という「地」において出会われている。つまり実践的であれ理論的であれ、わたしたちが物と関わるとき、たとえ風の音というただひとつの現象にしか向きあわない場合であっても、世界の全体がすでに潜在性の次元において、意味地平として開示されている。わたしたちの生は、けっきょくのところ、生活関心の地平としての世界、つまり安定していて確実な普遍的地盤としての世界を前提し、それに支えられている。このように世界の問題が、とりわけ生活世界として主題化されたのは、『危機』をはじめとする後期フッサールの思想においてである。わたしたちの議論もまた、生活世界の概念を潜在的な意味の地平という観点から規定するものであり、したがってここでいう世界とは、自然的態度において考えられるような、存在するものの総体ではない。世界は、個別的なものの全体に解消することはできず、むしろ個別的なものと出会うことを可能にする地平として常にすでにあたえられている。逆にいえば、存在するものは、世界の現出する多様な射映として、いわば「世界の一切断面」であるともいえよう。フッサールは生活世界についてつぎのように述べている。生活世界は……そこに目覚めつつ生きているわたしたちにとって常にすでにそこにあり、また予めわたしたちにとって存在しており、理論的であれ理論以外であれ、あらゆる実践にとっての「地盤」である。世界は、常になんらかの実践的関心をいだいた主体であるわたしたちにとって、或るときたまたまあたえられるというものではなく、あらゆる現実的および可能的実践の普遍的フィールドとして、地平として、いつも必然的に予めあたえられている。(HusserlianaBd.VI, S.145.『危機』§37)さて、ものの知覚経験から、そのものの背景をなす意味的諸地平へ、そしてそれら諸地平をさらに超越する全体地平(つまり経験の唯一的な地平としての世界)へと、超越論的まなざしを遡らせていくことは、エポケーと呼ばれる現象学的操作に基づいている。知覚経験において出会われる世界内部のさまざまなものへの関わりを遮断することによってわたしたちは、反省的に、一切が現象としてたち現れる絶対的場所(超越論的自我)へ連れ戻されるのである。わたしたちはつぎに、このエポケーとアイステーシスとの連関について見ておこう。3.無関心性先にわたしたちは、一個の机を眼前にする場合を取りあげたが、そのような哲学者のあげる事例の多くは、知覚の例としてきわめて例外的なものではなかろうか。たしかにあらゆる志向性は、知覚による存在信憑に基礎をおいており、だからこそ知覚の原理的な優越性を浮き彫りにすべく純化された知覚が求められたのだろう。しかし何の用もなしに机を眺めたりするのは、日常の行為連関の途切れ目に、まれにしか起こりえないことであって、通常わたしたちは、何らかの意図・願望・欲求等の志向を遂行することに伴って何かを見、聞き、知覚している。信号の赤いランプを見るのは、道路をわたって大学の構内に向かうためであって、信号を見つめるという知覚がそれだけで切りはなされて成立しているわけではない。いいかえると、何かに気づき、ことさらに注意を向けるときのような知覚を主題化することには、それ自体においてひとつの哲学的動機が潜んでいるともいえよう。机を見ることだけを脱文脈化し主題化することは、知覚の働きのもつ卓抜な開示性をそれとして際だたせることであり、それは同時に、ひとつの態度変更にほかならない。つまりこうしたまなざしの向けかえにはある種の「反省的」態度がふくまれており、それは、冒頭にあげたような、アイステーシスの一契機としての美的なものにかかわる態度へと通じているのではなかろうか。通常わたしたちは知覚において、知覚する対象にかかわり没頭するために、知覚する営みそのものを自覚することはない。だから知覚自体に目を向けるためには、そうした日常的な自然的態度そのものを中断せざるをえないことになろう。このように日常的連関から遮断され、いわば純化されたアイステーシスを、広義の現象学的エポケーの概念との連関において考えることができるのではないかと思われるのである。もちろんフッサールにおいてエポケーないし超越11