ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNAL論的還元と名づけられた操作は、あくまで超越論的主観性としての絶対的な場を確保するための厳密な哲学的態度変更である。エポケーとは、デカルト的懐疑の先例にならい、超越的な存在者一切への判断を停止する徹底主義的な態度に基づいており、意識から個別的・偶然的な要素を除きさって、直接経験に立ち返ることである。たとえば知覚経験であれば、それは個別的・偶然的なものであってはならず、純粋な、つまり超越論的な場において記述されねばならない。現象学者のまなざしは、こうしてもたらされた超越論的意識のまなざしであって、学的意志をもった主体の理論的態度に支えられており、まさにそうした態度がフッサールの生涯を一貫していたと考えられる。しかしそれでもあえてここでは、現象学的エポケーと、純化されたアイステーシスの経験との或る隠された連携に着目したい。つまり『イデーンⅠ』で見いだされたエポケー概念は、晩年の『危機』にいたるまでくりかえし説かれるが、そうした行程のなかで本論がとくにとりあげたいと考えるのは「無関心性」という概念である。「関心を離れたまなざし」や「無関心的観者(uninteressierter Zuschauer)」といった言いまわしが、『危機』(とりわけ第三部)において、カッコつきで強調的にくりかえされているのである。そのなかでもここでは、「世界への自然的関心をいだいている生から『無関心的』な観察者の世界へと態度変更すること」について語られている一節を引用しておこう。わたしたちのいうエポケー、(いまここで扱われているテーマを規定している)エポケーによって、世界におけるいかなる自然的な生も、世界への関心も、わたしたちに閉ざされることになった。エポケーはわたしたちにそうした関心を超えた立場を授けたのである。世界の存在や現実性や空無性へのいかなる関心も、したがって世界認識へ理論的に方向づけられたいかなる関心も、また通常の意味でのいかなる実践的関心も、そうした関心のおかれた状況の真理の諸前提に拘束されており、そのためわたしたちには禁じられている。さらに、(哲学する者である)わたしたち自身にとって、わたしたち自身の関心を実行することが禁じられているばかりではない。わたしたちの同胞の関心を共有することも一切禁じられるのである。というのは、たとえ間接的でも、共有することで、存在する現実に関心をもつことになるだろうからである。学以前の意味での客観的真理であれ、学的な意味での客観的真理であれ、いかなる客観的真理も、また客観的存在へのいかなる確認も、前提としてであれ帰結としてであれ、わたしたちの学(つまり超越論的現象学〔引用者記〕)の圏内にけっして入ってくることはない。(Husserliana Bd.VI, S.178.)ここで無関心、つまり世界の諸事物への理論的・実践的関心の遮断として語られているのは、世界としての世界へとまなざしを遡らせることを可能にする超越論的な態度変更である。他方で、もちろん「無関心性」とはカントにおいて美的なものの第一の規定としてあげられている概念でもあり(『判断力批判』§2参照)、ここにわたしたちは、現象学的態度とアイステーシスの経験(美的・感性的直観としての気づき)との接点を見てとらざるをえない。ここでいうアイステースの経験とは、たとえば詩的経験として先鋭化された感性的知覚への沈潜を意味するものとさしあたり考えたいが、そのような経験が、現象学的判断停止における超越論的な態度変更に通底し隣接しているのではないかということである。つまり美的な反省的まなざしによる気づきもまた、普遍化された意味においてひとつのエポケーと見なすことができるのであり、それは、或る対象の知覚を超えて、それがたち現れる地平へと、つまりわたしたちの住む生活世界へと向かっていく。それはいわば、世界が、存在するものにおいて自らを告げ知らせることへの気づきなのである。目にはさやかに見ることのできないものは、風という対象そのものであると同時に、それを超越して、そのものがたち現れる地平の変化であり、その地平の変化を可能にしている時の移ろい、つまり周期的な季節の到来としての時間性である。そして日常の視覚経験には閉ざされたその構造が、注意深く耳を澄ますことによって「驚かれる」のである。秋や風の音といった言葉は、自己同一的な意味内容を保って、千年以上たった後のわたしたちにも了解可能なままに伝えられている。わたしたちはおそらく、わずかな数の言葉を通じて、作者の経験を言語的に辿りなおすことができるであろうし、詩の言葉12