ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

秋来ぬと風の音にぞに織りこまれた一種の超越論的エポケーを追思惟することができよう。しかしながら他方で、わたしたちは同時に、現象学的に遂行されるエポケー(つまり一般的にいえば哲学の視点)と、美的経験ないしアイステーシスとのあいだにある、決定的な差異にも目をむけねばならない。その点にも触れておこう。藤原敏行は「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(『古今和歌集』169)と歌った。この歌は、言葉の定型的な紋切り型として継承され、伝統文化の意味地平のネットワークにおいて、世界経験の型をあたえてきた。けれどもこの短詩形の言葉は、経験に枠組みをあてがうと同時に、開かれた無規定性と空虚な欠落を保持しつづける。わたしたちは、この歌に触れ、そうした無規定な空所を、みずからの個別的な感覚経験によってさまざまに充填していくことができる。このことは、いいかえると、「風の音を聞く」という知覚経験の詩的表現が、一般的な意味地平へと向かう現象学的記述とは逆のプロセスを辿るということではなかろうか。つまり詩の言葉にあっては、ノエマ的意味の一般性を媒介にしてあたえられた言語表現を理解することで完結するのではなく、むしろ逆向きに、言語的世界の一般性が開かれ、個別的・一回的な感覚経験へと解体していくことが重要なのである。わたしたちは、たとえば敏行の「秋きぬと」の歌を通じて、自ら感じた過去の風の感触、記憶、経験へと連れもどされる。詩の言葉は、ステレオタイプといっていいような一般性において受容されながら、それを貫いて、読者の側の一回的な経験の無限の射映へと解体されていくというべきである。つまり詩的態度においては、意味的なものの単に反復的な了解にとどまるのではなく、同じ超越論的な反省の契機を保持しながら、現象学の哲学的思考とは逆方向に作動するということである。わたしたちはここで、哲学的視点とは異なったアイステーシスの思考、美的ないし詩的経験の領域へと足を踏み入れる。そしてそうしたアイステーシスのまなざしを最終的にわたしたちは、多様な現出を現出のままに見つめるまなざし、フッサールのいう「現出者」や本質や理念的なものの解体へと導くまなざしとして、考えたいと思う。つまり現われの固有性の是認であり、たえず逃れ行くものを、逃れゆくままに言語化するような言葉の可能性として考えたいということである。4.世界内存在これまでみてきた観点をさらに掘り下げるために、つぎに視点を変えてハイデガーの世界内存在の概念に触れておきたい。フッサールの場合エポケーは、素朴な対象定立を停止し、そのことによって、世界に関わる自己の意識そのものを「無関心的」に静観すること(いわば自己透視すること)へと導く。そしてそのことによって、世界に意味付与し、世界を構成する主体としての超越論的主観性が、純粋な自我として露わになるのである。このようなエポケーに基づく超越論的還元の操作は、生活世界への還帰を語る『危機』にいたるまで一貫しているが、フッサールにあってあくまでそれは、学的意志をもった主体の確固とした理論的態度に支えられている。ここには、哲学する者の純粋な自我に立ち戻ることなしに世界の純粋な記述は不可能だとする、独我論的傾向がたしかにひそんでいるといえるだろう。他方、ハイデガーの世界概念に関していえば、近年の英米におけるハイデガー研究(たとえばヒューバート・L・ドレイファスの『世界内存在』など)に示されるように生活世界のプラグマティックな優位性をそこに見てとることができる。ハイデガーは、わたしたちの存在に端的に世界が内属している、つまりわたしたちが世界内存在であると規定することによって、一挙に世界や他者と、主観性との関係という問題を乗り越えてしまう。わたしたちは常にすでに、世界の内にあって、世界に住みついているのであり、世界には「共有された背景的親密性」というべきものが属している。このような、わたしたち現存在の世界内存在の有りようを、ドレイファスは、生活形式を論じる後期ウィトゲンシュタインに引きつけて解釈している(とりわけ『世界内存在』の第8章において)。つまり現存在とは、他者と共有された公共世界におけるわたしたちの「ふるまい」以外の何ものでもないというのである。こうしてまた、ハイデガーによって緻密に試みられた環境世界の分析、つまり意味の網目として、道具性の連関においてとらえられた世界の分析は、公共的な意味規範に訴えるウィトゲンシュタイン的枠組みで解釈されることになる。あるものを道具的に理解しているということは、規範的な、つまり適切13