ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALる」東アジア共通の文化圏が生まれていること、そしてそれが危機に瀕しているということだった。しかし、若者が文学や活字から離れているというのは本当だろうか。じつは、若者に読まれている文学作品は決して少なくない。例えば日本では、村上春樹の『1Q84』book1~ book3(新潮社、2009~10年)が、文庫版を含めて770万部を売り、新刊長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の都市』(文藝春秋、2013年)も、4月の発売から1ヶ月経たない間に100万部を売ったと伝えられる。十代の読者が減っているという声もあるが、村上春樹が好きな二十代の読者は今なお多い。中国に目を向けても、中堅作家余華の長編『兄弟』(作家出版社、2008年)が35万部を売っている。純文学に限らず、ライトノベルに範囲を拡げれば、もっと読まれている作家や作品が目白押しである。日本では、谷川流の『凉宮ハルヒの驚愕』(上・下、角川スニーカー文庫、2011年)の売り上げが初版だけで100万部を越えた。現在9巻まで出ているシリーズ全体では2000万部を超える。中国でも、郭敬明の長編ファンタジー『幻城』(春風文芸出版社、2003年)が200万部、青春群像を描いた『小時代1.0』(同前、2008年)『小時代2.0』(同前、2009年)がそれぞれ100万部を売っている。マンガまで含めれば、『One Piece』第52巻が初版250万部を売ったように、さらに読まれている作品がたくさんある。(中国でも、郭敬明の『小時代1.5』(上・下)(長江文芸出版社、2010年)『小時代2.5』(上・下)(同前、2011年)はマンガ版である。)こうした現象は、若者が決して活字の作品を読まなくなった訳ではないことを物語っている。ただ、彼らの興味は、いわゆる純文学や大衆文学ではなく、新しいジャンルの作品に移っているようなのだ。だとすれば、若者の文学離れ、あるいは文学の周縁化とは何を意味しているのだろうか。そして、それが東アジアの諸都市で共通に見られる現象なら、その背景には何があるのだろうか。わたしは文学やサブカルチャーをめぐって、いくつかの次元で決定的な変化が起こりつつあるのではないかと考えている。まず、若者のテクストの読み方がこれまでと異なって来ているのではないか。もちろん読み方の変化にはさまざまな要素が重層的に混在しているだろう。しかし、ごく単純化して言えば、つぎのような変化がみられる。これまで文学テクストを読むとき、読者は主にストーリーや作品に込められた思想、文体などを鑑賞してきた。しかし、現在の若い読者の一部は、そうしたこととともに、あるいはそれ以上に、キャラクターを鑑賞することに重きを置くようになっている。特にアニメ、マンガ、ライトノベルや、それに付随するコスプレ、二次創作など同人活動の愛好者たちはそうだ。例えば、コスプレは好きな作品の好きなキャラクターに扮装するし、二次創作は原作のキャラクターなどを借用して新たな作品を創作する。これら愛好者が注目しているのは、明らかにストーリーではなく、キャラクターだ。それだけではない。そうしたテクストの読み方の変化は、読者と文学の関係をも変えつつあるのではないかと思う。具体的に言えば、読むことをとおして作品に期待するものが変化してきているのではないだろうか。近代以降、文学作品、なかでも純文学作品を読むとき、読者はそれらをとおして、人間や社会、世界や歴史の真実に触れること、あるいは触れるための手がかりを見つけることを期待してきた。少なくとも、そうしたことを感じさせてくれるのが、優れた文学作品だと思ってきた。ストーリーや作家の思想、文体はそのための重要な要素だった。魯迅やドストエフスキーを読むときのことを考えればよい。しかし、現在のサブカルチャーを愛好する若者の一部は、そうしたことともに、あるいはそれ以上に、作品を通じて仲間と交流することに喜びを見いだしているようなのだ。彼らはインターネットを通じたり、サークルを作ったりして、ファンどうしの繋がりを持っている。そして、そうした共同体(コミュニティ)で、作品のキャラクターや設定について熱い議論を交わしている。自分の意見が受ければ即座に大きな反響がある。そうしたコミュニケーションの中で自分の居場所を見つけ、自己実現をした実感を得ることが大切らしいのだ。サブカルチャーのケースと内容は異なるが、村上春樹の流行も、読者が文学作品に求めるものの変化と深く関係していると、わたしは考えている。さらに言えば、そうしたキャラクターへの関心や、作品に求めるものの変化の背景には、若者のある種の孤独感や虚無感、閉塞感、あるいは社会との隔絶感(社会に参画できるという思いの欠如といってもよい)があるように思われる。そうした関心から、わたしは東アジアの五つの都148