ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
- ページ
- 16/230
このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている16ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている16ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNALな使用方法がわかっている、ということにほかならず、それをさかのぼってイデア的な意味の領域が存在しているわけではない。いいかえると、道具的なものと関わるわたしたちのふるまいの一致、つまり「皆そうするものなのだ」という生活形式の一致、の背後には何もないのである。道具的なものは、わたしたちの公共的な環境世界、つまり日々なじまれた既知の領域において、出会われる。したがってハイデガーにあっては、生活世界ないし環境世界における知覚は、理論的・学的なものとしてではなく、世界に根ざした「配視Umsicht」として、とらえられている。そのようなまなざしによって、日常の、たとえば手仕事の世界において、道具的に意味づけられたもの(手許にあるハンマー等々)の存在性格から出発してハイデガーは、世界の世界性を有意義性と規定し、世界内存在たる現存在の基礎的分析を遂行する。ここでは、生活世界とは有意味的連関であり、わたしたちは、それをみちびく配視(生活世界のまなざし)とともに、存在するものになじみ、そのものと関わっているのである。こうした世界分析の内には、プラグマティズム的といっていいような視点が潜んでいるといえよう。たしかにドレイファスの指摘するように、生活形式と意味規範の一致の無根拠性といった後期ウィトゲンシュタイン的テーマを、ハイデガーの有意義性としての世界の分析の内に読みとることは可能であろう。じっさいハイデガーは、有意義性として世界を性格づけたのちに、無意義なものとして露わになる世界について語っている。しかしながら、その場合、どのような文脈で無意義性と化した世界が語られているかが重要であろう。つまりそれは、不安という気分の内で開示される世界の有りようであり、世界が世界として現れる経験、いいかえると広義のエポケーとしての経験がそこで語られているとわたしは解釈したい。逆に見れば、有意義性として記述された世界の分析に先立って、すでに、特異な存在経験(不安)がエポケーとして作動し分析の全体をみちびいているということではなかろうか。(この点をドレイファスの解釈はまったく見ようとはせず、意図的に排除している。)あえてここで『存在と時間』における「エポケー」として語られた事柄は、理論的態度をも含めた一切の「世界内部の存在者との関わり」の停止を意味するものである。そして不安という気分によって示される、この日常性の遮断は、「エポケー」とはっきり名ざされているわけではないにしても、『存在と時間』のなかで中核的な位置を占めているのである。先にわたしたちは、知覚経験における「図から地への気づき」について、つまり背景的世界への知について語ったが、ハイデガーのエポケーにあってはむしろ、図が、地としての世界から滑り落ちていき、まっさらの空無に直面するような経験が語られている。しかもそうした経験が、不安という気分として、つまり否応なくこの世界に投げ込まれたわたしたちの被投性として、分析されている点に注目せねばならない。被投性とはあえて言えば、世界の側から「触発」され、触れられていることである。この意味で、世界に投げこまれていることは、世界の感触に身をさらしていること、つまり「気分づけられている」ことにほかならない。気分とはひとつの受動的契機であり、すなわち感性ないしアイステーシスの働きそのものなのである。ところで不安においては、世界が世界として、世界内存在である自己が自己として、押し迫ってくると同時に、日常の生活世界において親密な、なじまれていた存在者は、道具的・有意味的連関から解き放たれて、世界の地平から滑り落ちていく、とされている。つまりこのときに、存在するものはむしろ、人間的な意味の被覆をぬぐい去って、非人間的な不気味さにおいて、だが同時に物としての物固有の尊厳をもって、出会われるのではなかろうか。『存在と時間』においては十分に展開しえなかった、存在するものの真理への問いが、1930年代以降の芸術作品論やヘルダーリン解釈やニーチェ講義のなかで、ポジティブなかたちで自らを語りうる言葉を見出すようになったことはきわめて意味深いといえる。ハイデガーにおいて、フッサールとは別の仕方で、アイステーシスの経験への応答が試みられているように思われるのである。(ニーチェ講義のなかでハイデガーがカントの『判断力批判』における無関心性の概念について触れた個所がある。この部分の解釈に関しては、以下のシンポジウム報告書における拙論を参照のこと。「2012年度美学回全国大会シンポジム報告書@東北大学」http://www.sal.tohoku.ac.jp/estetica/tasogare62/pdf/tasogare_01.pdf)14