ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALかび上がってくるのは、幸せを感じ、積極的に社会と向き合おうとする若者像である。これは何を意味しているのだろう。どちらかのイメージが間違っているのだろうか。それとも、現在の若者が両極に別れているのだろうか。わたしは、いずれも現在の若者の姿を伝えているのだと思う。問題は、正反対に見える反応の奥にある彼らの心の動きである。古市憲寿は、大澤真幸の議論を引いて、今が幸せだと答える若者の心理を次のように分析している。将来の可能性が残されている人や、これからの人生に「希望」がある人にとって、「今は不幸」だと言っても自分を否定したことにはならない……逆に言えば、もはや自分がこれ以上は幸せになるとは思えない時、人は「今の生活が幸せだ」と答えるしかない。(古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』講談社、2011年)彼らが「幸せ」と答えるのは、積極的な現状肯定ではなく、将来、現在の自分の状態が改善できるという実感がないからだ、というのである。古市がそれと呼応する例として挙げるのは、「充実感や生きがいを感じる時はいつか」と聞かれて、「友人や仲間といるとき」と答える若者が増加し続けていることや、社会志向が強い割に、実際にボランティアなどに参加したことのある若者が少ないことである。そうしたことから、古市は若者の幸福感や、社会志向を次のように結論づける。まるでムラに住む人のように、「仲間」がいる「小さな世界」で日常を送る若者たち。これこそが、現代に生きる若者たちが幸せな理由の本質である。……日常の閉塞感を打ち破ってくれるような魅力的でわかりやすい「出口」がなかなか転がってはいないからだ。何かをしたい。このままじゃいけない。だけど、どうしたらいいのかわからない。(古市憲寿、同上書)雨宮処凜と古市憲寿が提示する、二つの相反する若者像から見えてくるのは、閉塞感や孤独感を抱きながら、自分の周りの世界で仲間との繋がりを求めることで、日常を乗り越えている若者の姿である。そんな若者と、キャラクターを重視する読みには相関関係がある。批評家の宇野常寛は、両者の関係について次のように述べている。国内ではゼロ年代に入り、教室やオフィス、あるいは学校など、特定の共同体の中で共有されるその人のイメージを「キャラクター」と呼ぶことが定着した。……この一種の「和製英語」定着の背景には、日常を過ごす場としての小さな共同体(家族、学級、友人関係など)を一種の「物語」のようなものとして解釈し、そこで与えられる(相対的な)位置を「キャラクター」のようなものとして解釈する思考様式が広く浸透し始めたことを示している。……物語に主役と脇役、善玉と悪玉がいるように、与えられた位置=キャラクターがそこ(引用者注:小さな共同体)ではすべてを決定する。(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房、2008年)つまり、こういうことだ。多くの若者が、社会に参画し貢献したいと思いながら、どうすればよいかわからずに、閉塞感を抱いて暮らしている。そして、自分はその社会から割り振られた役割(キャラクター)を演じている。彼らは日常の小さな世界で、自分の居場所を探し、仲間と繋がることで平安を得ようとしている。不幸にしてその平安がかなわぬ境遇の若者は、雨宮処凜が言うような暗い思いをいだくだろう。運よく、今その平安を得ている若者は、古市憲寿が紹介したような感想を抱くだろう。二人が描いた現代の若者像は、相反しているように見えて、実は同じ若者の姿を異なる側面から見ているのだ。もう一つ、若者のキャラクター中心の読みを?醸してきた背景がある。いわゆる教室内の「スクールカースト」である。若い教育学者の鈴木翔は今の中学・高校の生徒の学校生活に次のような特徴があるという。特に中学校以降になると、個々の生徒が何らかのグループに所属し、それぞれのグループに名160