ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNAL思《蟻族:大学畢業生聚居村実録》、広西師範大学出版社、2009年などに詳しい)それだけではない。運よく就職できたとしても、家の購入が問題になる。中国は今でも社会的に結婚への圧力が強いが、そのためには家を持っていることが求められる。しかし、経済発展が進む中、マンションの価格は急騰し、庶民には手の届かないものになっている。唐欣恬の小説『裸婚』(原題:《裸婚??80後的新結婚時代》、華文出版社、2009年)は、そうした庶民の姿を描いてベストセラーになった。家の購入をめぐって人生を狂わされる姉夫婦と妹の一家の物語である。この小説はテレビドラマにもなって広く話題を呼んだ。つまり、背景は異なっていても、中国の若者が置かれている心理的な状況は、雨宮処凜の描く日本の若者と大きな隔たりがないということだ。それに、中国の社会はもともと庶民が社会の重要な問題の決定に参与する権利や機会に乏しい。若者が閉塞感や社会との距離を感じたとしても無理はない。こうしてみると、今の若者の一部が、なぜライトノベル(「軽小説」)や、やおい小説、アニメ・マンガ・ゲームを愛好するのか、彼らがなぜキャラクターを中心に読むのか、作品の深さとともに、なぜ仲間とのやりとりが大切なのか、なぜ二次創作やコスプレなどの同人活動に入れ込むのか、その一端が見えてくる。7.わたしたちはどこへ行くのか?これまで、読者は作品をとおして人間や、社会や、世界の真実に触れること、あるいは触れる手がかりを見つけることを期待してきた。少なくとも、そうしたものを提供してくれるのが、優れた文学作品だと思ってきた。魯迅やドストエフスキーの作品を読む時を思い出していただけばよい。わたしは、そう繰り返し述べた。それは、近代以降、一貫して行われてきた文学の読み方にほかならない。近代文学が誕生したとき、作品は読者に真実を開示する新たな芸術として登場した。伊藤整はその変化を次のように語っている。作者は密室で一人でそれを作り演じ、読者は密室で一人でそれを味わう。……その条件において初めて……読む方も、他人の秘密なひとりごとを聞き、他人の隠したがる行為や考えを知るという戦慄を味わうようになった。……それは時としては神に訴える人間の切ない声であり、また時としては、情慾的な好奇心を満足させる打ち明け話でもある。(伊藤整『小説の方法』改訂版、新潮社、1957年)近代の読者は、作中人物の内面をのぞき込み、その世界を自分の内面と重ね合わせることを望むようになったのだ。だが、作品の登場人物の心を覗いたとしても、それはあくまで架空の人物で、読者自身とは結びつかない。そこで、近代の文学は次のような方法を考え出した。日本や中国で近代文学が誕生してから百年あまりが過ぎた。……そのことは、「近代文学」に次のような叙述の方法を要求することになった。現実の個々の人物は、きわめて偶然的な存在であって人間にな一般というものを荷うことはできない。だから架空の人物を作り上げることによってその人間一般を荷わせる。(杉山康彦『ことばの藝術』、大修館書店、1976年)いわゆる「典型」である。こうして、読者は文学作品が自分の内面とつながっていると信じ、作品をとおして人間やこの世のある種の真実をかいま見ることを期待するようになった。これが近代文学、言い換えればわたしたちが「文学」と呼んでいるものの特徴である。近代の文学は神聖な使命を担うようになったのだ。若者たちのライトノベル(「軽小説」)や、やおい小説、アニメ・マンガ・ゲームへの志向は、活字離れや文学の周縁化の一環として語られてきた。キャラクターに即して読み、二次創作やコスプレ、ファンどうしの交流を通じて、仲間との繋がりを求める彼らの読み方が、近代文学の読書行為と異なるのは確かだ。日本や中国で近代文学が誕生してから百年あまりが過ぎた。ここで紹介したサブカルチャーをめぐる変化は、近代文学が、これまで担ってきた効能をすでに果たせなくなりつつあることを示唆している。19世紀初頭のヨーロッパで、(日本では19世紀末、162