ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
秋来ぬと風の音にぞおわりに─現代世界のアイステーシス以上の考察を踏まえ、最後に、わたしたちの住むこの世界へと目をむけたい。たしかに一方でわたしたちは気づきや「注意」を現実社会の歴史的文脈のなかで見きわめる必要があり、たとえば十九世紀後半に「注意」の概念が決定的な近代的変容を遂げたとするJ・クレーリーの議論などもある(『知覚の宙吊り』ほか)。実際たとえば、現代都市の人工的環境における気づきは、千年前の風の音への驚きとははるかに隔たっているかに感じられる。しかしながらわたしたちはなお超越論的な次元にとどまりつつ、もののたち現れとしての存在とその時間性への気づき(驚き)であるアイステーシスの可能性について考えてみたい。そのような超越論的次元においてアイステーシスは、世界内存在としてのわたしたちが、存在するものの無限の連鎖に触れることへといざなうのである。ところで『存在と時間』以後のハイデガーは、存在の歴史という視点から、隠蔽性と開示性の相互関係としての存在に寄りそう言葉を語るようになり、あくまで超越論的な(ハイデガーの用語でいえば存在論的な)次元にとどまりながら、詩的な言語に接近していく。『存在と時間』では、現存在であるわたしたちの側から、みずからの有限性として理解されていた事柄が、1930年代以降の思索においては反転し、わたしたち人間存在の分析を経ずに、「存在の歴史Seinsgeschichte」という視点のもとに語られるようになる。歴史としての存在は、みずからを留めおき、停止し、滞留する。このようにみずからを隠し留保する存在の隠蔽性から、ハイデガーはエポケーという概念をとらえるようになる。そしてそのときエポケーはまた、わたしたちが投げこまれた存在の歴史の留まりの一時期ないし一段階(つまりエポック)をも意味している。存在の本質の真理がこのように明け開きつつ自らを留めおくこと、このことをわたしたちは存在のエポケーと呼ぶことができよう。……このエポケーという語は、ここではフッサールの場合のように、対象化において定立的意識作用を中止するといった方法論的なものを名指してはいない。存在の滞留(エポケー)は、存在それ自身(の動向)に属しており、存在忘却の経験から考えられている。(Martin Heidegger, GesamtausgabeBd.5. Holzwege, S.337.)ここで述べられているように、エポケーとは、中後期のハイデガーによれば、みずからを授ける存在が同時にみずからを現わすことを拒むということである。そのときわたしたちはただ、自己の歴史的あり方を規定する存在の側の動性(つまり時間性)に耳を澄ますことができるだけだ、ということになろう。しかしながらわたしたちは本論において、このようなハイデガー的な、いわば秘エソテリック教的な言説をくりかえすのではなく、なおそのような語りの手前で考えつづけることを試みてきた。これまで見たようにエポケーとは、無限に多様な相貌を示す物とこの世界とへの滞留、留まりであり、気づくこと、知覚における受容的な態度変更であった。そのとき気づかれ、驚かれるのは、たとえば秋という時の訪れ(おとなひ)であり、この世界そのものの響きである。自己と世界との共鳴関係において、ここではむしろわたしという主体の気づきではなく、世界の気づき、世界の驚きとしての「おとなひ」(音を伝え、音によって告げ知らせること)こそが問われているといわねばならない。ところで、わたしたちの日常の安定した基盤をかたちづくっているもの、つまり個々の志向体験をささえている慣習的な意味の地層をフッサールは、熟知性(Vorbekanntheit)と呼んだ。しかしこれまで考察してきたように、わたしたちがエポケーにおいて垣間見るのはむしろ、そのような基盤をなす現実、熟知された生活世界が、「よそよそしさ」に転じる経験であった。世界は、暗がりや隠蔽性を前提しているのであり、わたしたちにとってなじまれた生活世界が、アイステーシスのまなざしを通じて、疎遠で不気味な相貌を示しはじめる。アイステーシスはけっきょく、そのような、わたしたち人間によって制御しえないものへの態度にほかならない。わたしたちの安穏な日常が危うい(ときにまがまがしくさえある)基底に支えられたものであるという、一千年前から変わることのないその構造に目を向けるとき、わたしたちは、自然災害の凶暴さはいうまでもなく、日常のほんの些細なずれや歪みから、わたしたちの生そのものの危うさに触れている。耳を澄ませばわたしたちは、たとえばミツバチ15