ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNAL学全集第29巻横光利一集月報』新潮社、1961年)。このように語る川端は、「大火見物」(『文藝春秋』第1巻11号、1923年11月)のなかで、千駄木町の下宿の二階で被災したときの状況を「地震の時、私は大したことはなかつたらうと思つて、二階から容易に動かなかつたが、瓦の落ちる音が激しくなつたので、階下へ下りた」と記している。川端は、大きな被害に遭うこともなく無事であったために、芥川龍之介(1892~1927年)、今東光(1898~1977年)とともに、大震災直後の東京を見て回ることになる。川端はその体験について、大震災から5年半後、「芥川龍之介氏と吉原」(『サンデー毎日』第8年3号、1929年1月13日)のなかで、「芥川氏と今君と私とは、多分芥川氏が云ひ出されたやうに思ふが、吉原の池へ死骸を見に行つた」と述べている。芥川に誘われて、今とともに、大震災後直後、吉原遊郭近くの池に死骸を見に行ったことになるが、川端は、大地震から「二三年の後いよいよ自殺の決意を固められた時に、死の姿の一つとして、あの吉原の池に累々と重なつた醜い死骸は必ず故人の頭に甦つて来たにちがひないと思ふ」と、この時の記憶と1927年の芥川の自殺とを結び付けて語っていた。被災した場所は異なれども、横光と川端は、いずれも生命を脅かされる体験をしていたが、大震災の衝撃をより強く受けたのは、横光の方であるように見える。横光は大震災の恐怖について、どのように語っているのだろうか。次に、それを見ていくことにしたい。3.「心に受けた恐怖」と創作の停滞田山花袋(1871~1930年)は、関東大震災の見聞録『東京震災記』(博文館、1924年)のなかで、作家たちは「大抵山の手に住んでゐた」ため、「文壇には大した犠牲を払つたものはなかつた」と書いている。しかし、デビューして間もない横光は、大学在学時からの「粗末な下宿」に住んでおり、このなかに含まれてはいなかったに違いない。横光が居住していたのは山の手とされる旧小石川区であったが、居住先の下宿は倒壊している。関東大震災では、東京のなかでも下町とされる地域が地震と火災によって大きな被害を受けたことはよく知られているが、被災状況は地域によって異なり、さらに家屋の状況によっても左右された。横光の場合、大学時代から居住していた「粗末な下宿」が倒壊したため住む場所を失い、友人の作家、小島勗(1900~1933年)の家にしばらく身を寄せることになったのである。被災後の横光の様子は、大震災後間もない頃、友人の詩人、佐藤一英(1899~1979年)に宛てた1923年9月19日消印の葉書からうかがえる。横光はここで、「家が潰れて了つたので小島の所へ避難して来てゐる」、「此の頃は何か手紙も手につかないので失礼」と自分の被災状況を記していた。「手紙も手につかない」と書かれているところからは、大震災による衝撃と現実への対応のために創作も手につかなかったことが想像される。事実、横光は被災してしばらくの間、目立った創作をほとんど発表していない。そのような状況下で、横光は、『文藝春秋』の震災特集号に「震災」(『文藝春秋』第1巻11号、1923年11月)という文章を寄稿している。大震災直後、多くの雑誌が震災特集を組んでいるが、菊池寛(1888~1948年)の主宰する雑誌『文藝春秋』もその一つであった。そこには、菊池「災後雑感」、川端「大火見物」などとともに、横光の「震災」も掲載されている。横光はこのエッセイで、「稀有な災厄」による被災者の「心に受けた恐怖」に言及し、次のように述べている。東京附近に住んでゐたものなら、かう云ふ地震がいづれ近々来るにちがひないとは、誰しも予想してゐたことと思はれる。しかし人々は不思議にその災厄の予想については一様にぼんやりとしてゐた。地震に逢つて初めて、かう云ふ地震はもう必ず来るに定つてゐると思つてゐたと云ひ出し思ひ出した。それが皆尽く偽ならぬ心から云ひ出したそれほども、此の地震の来るといふことが、ぼんやりとしながらも尚且つ明瞭に感じられた。それにも拘らず、なぜ此の災害をこれほど大きくして了つたか。それは一口の平凡な言葉で云ひ切ることが出来る。「人間はあまり功利であつたが故に。人々は大声を発して警告し合ふ暇を忘れてゐた。」と。横光は「震災」という文章のなかで、自分たちの生存中には大地震が起きることはないと思い込んだ「功利」主義のために、「人々は大声を発して警告し合ふ暇を忘れ」、被害がより甚大なものになったこ172