ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
横光利一と川端康成の関東大震災とを指摘していた。こうした考え方は、たとえば、夏目漱石(1867~1916年)の門下の文人としても知られ、大震災について多数の文章を著した寺田寅彦(1878~1935年)が、科学者の視点から警鐘を鳴らしたことなどとも少なからず呼応する。横光が「心に受けた恐怖」と向き合いながら、震災後に新たな言語表現を模索し、「稀有な災厄」を忘却することなくその記憶を持続的に喚起していこうとしていた点は興味深い。新感覚派の文学は、従来の文学を否定する奇を衒った表現運動と当時の文壇では見る向きが少なくなかったが、大震災後の世界を表現するために、新しい言語表現を必要とした若い文学者たちの模索の軌跡でもあった。4 .再構築される断片化された言葉──横光の描く復興する東京関東大震災の痕跡を、横光の創作にどのように見出すことができるのだろうか。評論・エッセイ・講演における大震災への言及はしばしば見られるが、直接の題材にすることを回避していたように思われる小説でも、1923年9月1日の非常事態に遭遇しなければ書かれなかっただろう小説のタイプがある。そこでは、大震災後に復興する市街を語彙・統辞・修辞からなる文体に工夫を凝らすことで表現が試みられた。それは、大震災によって断片化した言葉を、新たな視点から連結、再構築し、言語による斬新な形式を生み出そうとする実験に見える。このような表現の試みは、それ以前から萌してはいたものの、大震災以後、より意識化されていく。大震災から1年後の1924年10月、横光は、川端ら『文藝春秋』の編集同人たちとともに、新しいタイプの文芸同人雑誌『文藝時代』を金星堂から創刊している。その創刊号には、不測の鉄道事故に戸惑う群衆の混乱を描いた、横光の短篇小説「頭ならびに腹」が掲載している。この小説は、次のようにはじまる。真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。冒頭の斬新な表現が話題を呼び、評論家の千葉亀雄(1878 ~ 1935年)によって、横光をはじめとする『文藝時代』同人たちは「新感覚派」と呼ばれるようになり、この呼称が一般化することになる。大震災後、横光は急速に復興する東京に強い関心を示し、「無礼な街」(『新潮』第41巻3号、1924年9月)、「街の底」(『文藝時代』第2巻8号、1925年8月)など、市街を題材にした小説を創作している。他にも、「セメント製アパートメント。丘と丘とを?充した義齒。」(「朦朧とした風」『改造』第9巻7号、1927年7月)、「今日は昨日の続きである。エレベーターは吐瀉を続けた。」(「七階の運動」『文藝春秋』第5巻9号、1927年9月)などが、有力な文芸・総合雑誌に発表されている。これらの小説では、復興する市街に現出するコンクリートの共同住宅やデパートのエレベーターを比喩や擬人法などの修辞や、非人間の主語を駆使し描かれている。震災後の市街を印象づけるモノを指標する語彙と修辞と統辞を相俟って、復興する市街に生命が吹き込まれ、都市の動態が表現されていたのである。こうした横光の小説の特色は、関東大震災あるいはその復興事業を直接には表現していない点である。エッセイや評論では、関東大震災についてたびたび言及した横光であったが、この時期の小説のなかでそれを積極的に描こうとはしていない。それは、大震災後の都市を抽象的に表現しようとした横光の小説の方法とも少なからずかかわっていた。5 .描かれることのない帝都復興祭──川端康成の『浅草紅団』一方、川端康成の場合はどうであったか。復興する市街への注目は、具体的な地名をタイトルにかかげ、関東大震災についてもとりあげた小説「浅草紅団」にうかがえる。この小説では、繁華街の浅草を舞台に、そこに出没する不良少女の活躍が描かれる。浅草の路地裏で遭遇した美しい少女を介して出合った不良少女たちに誘われながら、語り手の「私」が都市を探訪し、読者はそれに導かれながら、大震災前後の浅草を追体験するように物語が進行していく。横光の場合とは異なり、川端の小説では大震災についての言及がかなり見られる。川端は、大震災から7年後の「帝都復興祭」を翌年に控えた1929年末に、「浅草紅団」を『東京朝日新聞』に連載し、1930年12月に先進社から単行本を刊行する。彼はこの小説のなかで、復興を遂げていく現在の浅草とともに、大震災によって街が灰燼に帰し、忘却され173