ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNAL(32)195出家に多く伝えている)53(。こうした情報は、本人が直接見聞きして得たものばかりではない。「御噂申候通、朝かほ日記、大切伍大力ニ而承り申候)54(」「名古屋大芝居中当り之所、此節休日を承り申候噂ニて、げだい替り之よしニ候)55(」などの記述から分かるように伝聞も含んでいた。このように、小出家に情報を伝える側の人々も、独自の情報網をもち、直接的・間接的に遠隔地の芝居情報を得ていたことが伺える。こうした情報網の形成により、小出家は名古屋・岡崎等都市の芝居の情報を得ることが可能になっていた。(3)浄瑠璃稽古に見る周辺興行地との関係それでは、実際に小出家はどのようにして芸能を受容していたのだろうか。ここでは、小出家の浄瑠璃稽古を通して、芸能受容の実態を見ていきたい。小出家においては、天保十一年(一八四〇)・十四年(一八四三)に浄瑠璃稽古が行われた)56(。何れも他所から太夫・三味線を呼び寄せており、「塩又」という人物が太夫・三味線と小出家との間を取り持ち、稽古料の交渉にあたった。契約が成立すると太夫たちを足助村に呼び寄せ、滞在中に稽古をつけてもらうという形式であった。また、太夫の一人は、滞在中に「新町武六方」の座敷を借りて興行も催している。天保十一年の場合、稽古にかかった費用は一両二分二朱と一貫六六八文であり、稽古料、太夫たちの宿代などの雑費の他、仲介者「塩又」への謝礼も含まれていた。小出家に招かれた太夫たちはどのような人物だったのだろうか。天保十一年に招かれたのは、竹本網太夫と豊沢仙右衛門である。網太夫は「西京産」であったが名古屋に住み、名古屋で一生を終えた太夫である)57(。また、仙右衛門は大坂堀江の生まれだが、網太夫の養子となり、生涯名古屋で暮らした)58(。仙右衛門については、「此人尾州・濃州・信州にて多門弟有之候得共不詳」という記述があり、名古屋を拠点に周辺地域で幅広く活動する芸能者であったことが分かる。天保十四年には仙右衛門および竹本瑠璃太夫が招かれている。この瑠璃太夫は前述の二人とは異なり、大坂島之内出身で活動も上方中心であった)59(。天保十二年(一八四一)正月、大坂上演の「信仰記」において「少し役もめにて退座致し夫より伊勢四日市又は桑名に長々逗留致し」たという記述があり、弘化元年(一八四四)正月に大坂に戻っている。瑠璃太夫が足助村に招かれたのは、伊勢滞在中であった。このように、足助村においては、東海地方の諸都市から浄瑠璃文化を受容していた。また、瑠璃太夫の例から分かるように名古屋・伊勢といった興行地は、しばしば周辺の在方村と上方を結ぶ拠点としても機能した。以上、小出家における歌舞伎情報の入手、浄瑠璃稽古を通じて、足助村における歌舞伎・浄瑠璃受容の一端を示した。在方においては、生活上の地域間交流が周辺諸都市の興行情報をもたらし、それらの都市から芸能を取り込むことで歌舞伎文化の基盤を形成していったのである。3.地芝居上演にみる地域文化の展開本章は、これまで見てきた、在方における歌舞伎・浄瑠璃受容の実態とその周辺諸興行地の性格をふまえ、他地域との関わりが地域文化の形成にどのように反映されるのかという点を検討したい。対象とするのは、足助村とその周辺の則定村・霧山村・下国谷村である。地芝居の上演演目に着目し、三都・東海の興行地における上演状況を比較・検討することにより、文化の地域性を明らかにすることができると考える。【表】は、近世の足助村・下国谷村・霧山村・則定村の地芝居において上演された演目と、近世を通して、その演目の三都・東海地方における興行の番付が、どれだけ残っているのかを一覧にしたものである。同一の興行とみられるものは重複分として省き、また、興行期間の長短を是正するため、興行が一ヶ月を超えて長期に渡る場合は、別の興行として数えている。番付の残存状況によるので、正確さを欠くものの、上演傾向をある程度示すものとみてよい。これをみると、足助村とその近辺で上演された演目は、先学でも指摘のある通り)60(、多くは人形浄瑠璃から歌舞伎に移行した、義太夫狂言であることが見てとれる。1・3・12は、初演は歌舞伎だが、後に浄瑠璃に移行したものである。この他、6・23のように、他史料から浄瑠璃としての上演が多く確認できるものもある)61(。これらの演目の人気の高さは、「浄瑠璃外題見立相撲)62(」から伺うことができる。この番付は、浄瑠璃外題を相撲番付の体