ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(30)197いては、文化四年(一八〇七)の稲荷芝居において、江戸で評判の高い瀬川菊之丞が出演したが、「当時女形の親玉ながら、当地ニ而は不請。取花うすき故にや」と評され、名古屋の観客には受け入れられなかった。名古屋における上方との嗜好の類似性や、江戸との差異の背景には、地域認識があったと考えられる。文政元年(一八一八)七月、大須芝居において江戸一座による「天竺徳兵衛韓噺」が上演された。筆者の種信は、水中早替りや幽霊が出る演出に対し「其早き事、奇妙也」「芝居とは思われず…すごき事此上なし」などと江戸歌舞伎の新奇な演出を高く評価した。また、「京・大坂、当地にても、とんと真似も出来ぬ事也」と述べ、上方・名古屋の芝居とは一線を画するものとして認識した。文政三年(一八二〇)、橘町における江戸芝居興行について、種信は次のように述べる。近年の江戸好みの風潮で観客も多く(「諸事江戸風を好ゆへに、猶更見物多く」)、興行自体は成功であった。しかしながら、「京・大坂の芝居とは違ひ、仕組方ざわ??として一向実無之」芝居であり、筆者は「見功者には不向成」という評価を下している。ここからは、江戸文化が流行する中にも、京・大坂の芝居を規範とする、名古屋の観客の認識を見ることができる。江戸・上方の両方の役者が往来する名古屋であったが、この地の芸能の受容者は、名古屋を、上方歌舞伎を中心とする文化圏の中に位置づけていたといえる。一方、他地域の者にとって名古屋は独自の歌舞伎文化を持つ土地であった。江戸の歌舞伎役者の三代目中村仲蔵は、興行に際して、名古屋を次のように言い表す。この地は、初日にやりそこなうと「悪誉をしてカスをくはせ」、千秋楽まで悪態をつく土地柄であり、「当所の見物は、名代の皮肉」であると評価する)34(。名古屋は上方歌舞伎の影響を受け、芸能の受容者は上方歌舞伎への帰属意識を持っていた。しかしながら、他地域の人間からみれば、名古屋の歌舞伎文化には独自の気質が反映されており、それは他地域の文化とは区別されるものであった。2.在方における歌舞伎・浄瑠璃の受容(1)足助村小出家の生活・生業本章は、歌舞伎・浄瑠璃といった芸能の受容における、在方と地方都市の関係に注目する。ここでは足助村の小出家を取り上げ、生活・生業の交流と歌舞伎・浄瑠璃の受容の関係について明らかにする。文化十一年(一八一四)「二番諸色日記)35(」は、小出家への来訪者や村の出来事などを書き留めたものであり、小出家と地域との関わりをみることができる。村内については、村人の訪問、書物の貸し出し、借家請の挨拶などが記される。足助村の周辺地域に目を向けると、御蔵武神の頼母子講、則定村からの物品購入などがあり、訴訟による寺部・上ノ山・大島などとの関係も伺える。さらに遠方になると、名古屋・岡崎・美濃明知・伊勢・大坂などに小出家の人物が出向く事例も見られ、広範な地域との結びつきが確認できる。次に、生業における諸地域との結びつきについて述べておきたい)36(。小出家は、寛文二年(一六六二)以降酒屋を経営し、後に醤油・味噌などの醸造業、矢作川河口の新田経営、金融業などを幅広く経営するようになっていく。醸造に使う大豆は、廻船により江戸から運ばれたものが、矢作川を遡って足助村にもたらされた。このため、経由地である平坂(現西尾市)の市川彦三郎、平古(現豊田市)の磯谷仁右衛門とは大豆の取引により結びついていた。また、塩については、名古屋から赤穂塩、岡崎からは三河産の饗庭塩をそれぞれ購入しており、岡崎・名古屋の塩問屋が主な取引先となっている。新田経営に関しては、矢作川下流域を中心に新田を担保とした資金の貸付を行った。天明六年(一七八六)以降は、自身も新田を購入し、これらの地域と結びつきを深める。金融業については、足助村周辺、挙母を中心に広い範囲に取引先をもち、挙母の杉本彦兵衛のような高利貸しへの融資も見られる。生業の結びつきは婚姻関係にも関係する。小出家の子女おたせは、文政九年(一八二六)に岡崎の田中与左衛門家へ嫁いだ)37(。田中家は、岡崎能見町の干鰯商人であり、小出家から融資を受けていた)38(。この婚礼には、挙母の杉本彦兵衛や、平古の荷問屋磯谷仁右衛門ら生業の取引先の人々が出席してい