ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

近世の東海地方における地域文化の形成(29)198伊勢については元和三年(一六一七)、京の門屋唐左衛門の女歌舞伎興行により古市・中之地蔵において芝居が始まっている)22(。寛延年間には地方芝居の中では別格となり、文政六年の評判記『役者多見賑』には古市・中之地蔵に加え、松坂・久居・一身田が伊勢の芝居として掲載された)23(。また、文化八年(一八一一)の評判記『役者出情噺』には「伊勢尾張堺等にての狂言を不漏取調へさせ」とあり、伊勢における興行が役者評判記の位づけにも影響を及ぼすようになっていく)24(。こうした伊勢芝居の発展の背景には、伊勢参宮による興行市場の形成があったとされる)25(。岡崎については、寛政年間に六地蔵町に芝居小屋が立てられ、天保改革で一時廃止されるも、その後復活している)26(。こうした東海地方の興行地は、どのような位置づけになるのだろうか。文政八年(一八二五)の「諸国芝居繁栄数望)27(」は、相撲番付の体裁に倣って全国各地の芝居地を格付した見立番付であり、東西四段に分かれて芝居名が掲載される。まず、名古屋については東方一段目の江戸大芝居の三座につづき、「前頭」に橘町・清寿院・若宮八幡の芝居が見られ、西方三段目に名古屋七ノ宮がある。伊勢については、西方一段目の大坂・京の芝居に続き、伊勢古市・中の地蔵・松坂の芝居が掲載されている。また、東方二段目・三段目に、伊勢津・一身田・伊勢久居・勢州桑名・四日市が挙げられる。この他、三州吉田・三州岡崎・池鯉鮒といった三河の興行地の名が見られる。文化年間以降、独立した評判記を持つようになる名古屋と、地方芝居の中で別格に位置づけられた伊勢は、全国に散在する興行地の中で、江戸・大坂・京に続く主要興行地として評価された。さらに、その周辺には、津・四日市・三州吉田・岡崎といった興行地が点在していると認識されていた。それでは、これらの東海地方の興行地はどのような関係にあったのだろうか。三代目中村仲蔵(一八〇九?一八八六)の随筆『手前味噌)28(』から、近世後期の地方興行の様子を知ることができる。文政十二年(一八二九)三月、江戸三座の類焼後、仲蔵は大坂へ向かった。道すがら、懇意にする坂東彦三郎の伊勢芝居出演を知り、自身も興行への参加を決める。伊勢中之地蔵芝居で興行中、岡崎から興行の話が持ち込まれ、上演終了後、一行は岡崎六地蔵芝居に向かう。この興行は大入りが続き、この評判を聞いた名古屋の興行師から依頼があり(「この大人気と聞きて、尾州名古屋の芝居師、千代屋七右衛門といふ人買ひに来る」)、一行は名古屋へ向かった。神田由築氏が、瀬戸内地域の芸能の流通において、侠客のネットワークが機能していたことを指摘している)29(が、それと同様、伊勢・岡崎・名古屋においても興行師による芸能の流通機構が存在していたのである。このように情報の流通と興行の成立を可能にしたネットワークは、大規模な興行地のみに限るものではない。『手前味噌』には、仲蔵が嘉永四年(一八五一)に三州吉田‐岡崎‐西尾を巡業していたことが記されており、興行のネットワークは、小規模な興行地も含めて東海地方全体に広がりをみせた。(2)東海地方の興行地の性格次に、興行によって結びつく東海地方の歌舞伎文化の性格および人々の認識について、伊勢・名古屋を取り上げ検討したい。『新撰古今役者大全)30(』によれば、「田舎芝居の第一」と評される伊勢は、「昔」は「芸のしめ場」であり、ここで評判のよい役者を「京大坂の二番め師」にした、とある。このように、伊勢は上方歌舞伎の母胎ともなる重要な興行地であり、古くから別格の扱いであった。しかし、こうしたことは「昔」のことであり、「今(=寛延三年)」では「金次第で大立もの、われも??とゆく故、芝居も次第に高上に成て、上方に大概は同じ」になり、上方の歌舞伎と類似する傾向にあった。享保期、とりわけ上方においては、興行の不安定さから、多くの役者が地方興行に出ていく状況にあり)31(、そのような中で、伊勢は上方芝居の興行圏の一部を構成する地域となっていたといえる。一方、名古屋については江戸・上方の歌舞伎興行の場となっており、尾張藩士高力種信(一七五六?一八三一)の随筆『金明録)32(』より、その性格を見ることができる。この地は上方の当り狂言が上演されることが多かった)33(。文化五年(一八〇八)、橘町芝居の「柵自来也」については、役者の座組が悪いにも関わらず、大坂の当り狂言だという理由で繁昌しており、名古屋の観客と上方の観客の嗜好が類似していることが指摘できる。一方、江戸歌舞伎につ