ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(28)199璃・地芝居などを行う、地域文化の担い手でもある。彼らの活動について考える上で、近年の近世文化史研究に学ぶところが多い。近世においては、地域の人々の生業や流通によってネットワークが形成され、それが狂歌・俳諧・地誌編纂といった文化活動の基盤となっていた)9(。地域間の交流の中で、他地域との結びつきを保ちつつ、文化の担い手を再生産することも可能になっていた)10(。また、人々は自分の地域に対する認識を深め、その認識は、地誌編纂や特色をある往来物の作成といった、地域文化の形成に結びついた)11(。また、他者・他地域との関係により、他所の者に対する差異意識)12(や江戸を頂点とした地域の序列意識も生まれた)13(。これらの研究から見えるのは、中央の文化を受容した人々が、他地域との交流によって、自分の地域への認識を深め、独自の文化を形成していく姿である。以上のことを踏まえると、歌舞伎の広がりについて考えるには、地域の人々が、歌舞伎・浄瑠璃といった芸能をどのように受容し、どのように地域の文化に反映させていくのかという点を明らかにする必要がある。本論文は、芸能の受容者の視点から、その活動を通じて地域文化の形成について考察することを目的とする。本論文は三河国加茂郡足助村【図】を中心とした地域を取り上げ、前述の課題に応えることとする。元和元年(一六一五)以降、旗本本多家の所領となっていた足助村は、中山間部の在郷町であった)14(。この村は、名古屋からのびる名古屋街道と、岡崎からの七里街道の結節点にあった。これらの街道は、足助村で合流して伊那街道となり、信州へと通じており、足助村は山と海を結ぶ陸上交通の要衝であったといえる。山間部を中心に活動する中馬や、矢作川・巴川の水運は物資流通の活発化を促し、文化文政期には商業の拠点として一つの経済圏を築いていた。このような地域において人々は、歌舞伎・浄瑠璃といった芸能をどのようにして受容し、地芝居という地域文化に反映していったのだろうか。このことを明らかにするために、第一章においては、足助村周辺の興行地の位置づけと性格について検討し、東海地方の芸能受容の環境を明らかにする。第二章は、歌舞伎・浄瑠璃の受容において、足助村と他の地域がどのような関係にあったのかを明らかにする。ここでは足助村の商家小出家を取り上げ、生業・生活の交流と歌舞伎・浄瑠璃の受容との関係について検討する。第三章は、足助村とその周辺の村々(霧山村・下国谷村・則定村)の地芝居の上演演目を検討し、地芝居の地域性にについて考察する。1.東海地方の興行地の位置づけと性格(1)興行地の位置づけと相互の関係東海地方においては、名古屋・伊勢・岡崎などの複数の興行地が存在していた。名古屋においては、寛文四年(一六六四)に橘町芝居が認可されたのを端緒として、清寿院・若宮八幡・大須・七ッ寺・山王稲荷に芝居が成立していった)15(。享保年間以降、三都の芝居の経営不振により、役者の地方芝居出勤が盛んになり)16(、名古屋は上方歌舞伎の興行の場として重要な位置を占めるようになった)17(。また、江戸役者による興行も行われるようになっていく)18(。一方、名古屋を活動の拠点とする芸団)19(や役者)20(の存在も見られた。こうした興行の隆盛の中、文化二年(一八〇五)の評判記『役者よし??』以降、三都に加え名古屋の巻が独立した。さらに安政年間には「三ヶ津(=江戸・大坂・京)」と名古屋を並べた「四ヶ津」という語が使われるほどであった)21(。【図】足助村とその周辺地域