ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNAL(22)205次に間接的な理由について。以上の日本国内でのヨーロッパ諸国の角逐を含めて浦賀開港の失敗は日明講和交渉の失敗と関係があると考えられる。一六一五年琉球より日明講和交渉が不調に終わったことが報告された。これは日明の公貿易が実現せず、すなわち中国商品の公式な取引ルートが確保できないことを意味する。浦賀貿易はスペイン側の構想によると、中国商品がメインになっているので、中国との関係回復が不調に終わったのは、中国商品を求めているスペインの意図には叶わないこととなる。すなわち浦賀貿易の核心である中国貿易の機能が働かなくなり、スペイン側の浦賀港の必然性が薄くなっていったとみられる。幕府もスペインも、浦賀港に対する期待がだんだん小さくなっていったと考えられる。そして一六一六年四月の家康の死によって、異国との外交や貿易は将軍秀忠の管理下に置かれ、新しい局面を向えることになった。将軍秀忠は幕府の権力構成を全体として再編成したが、秀忠の側近勢力が政権を握り、家康側近が疎外される傾向があった)60(。2、元和二年八月八日令の意義一六一六年四月一七日に家康がなくなった。家康の死後、中国船とヨーロッパ諸国船に対し分散されていた三つの貿易港(長崎・平戸・浦賀)に変化が起きた。将軍秀忠は同年八月八日に禁教とともにヨーロッパ船との貿易を長崎および平戸に限定した。これは、浦賀・長崎・平戸の三港に許容していたヨーロッパ船の来航や国内活動を制限したことを意味する。この令は、一六一二年のキリスト教禁止令を再確認し、これまでのヨーロッパ船との貿易を統制するためであった。追而唐船之儀は、何方に着候共、船主次第売買可仕旨被仰出候、以上、急度申入候、仍伴天連門徒之儀、堅御停止之旨、先年相国様被仰出候上者、彌被存其旨、下々百姓已下ニ到迄、彼宗門無之様ニ可被入御念候、将又黒船いきりす舟之儀者、右之宗体ニ候間、到御領分ニ著岸候共、長崎平戸へ被遣、於御領内売買不仕様ニ尤候、此旨依上意如斯候、幕府は、キリスト教を固く停止するという、一六一二年に家康が命じた趣旨にそって、百姓以下に至るまでキリスト教徒がいなくなるように徹底すべきである、また黒船・イギリス船はキリスト教国の船であるため大名領に着岸しても、長崎・平戸へ向かわせ、領内で売買をしないよう命じた。注目すべきことは、これまでの幕府の政策が変わって、スペインの宗教・貿易政策と同様に、初めて宗教・貿易政策を一体化した。幕府は全国規模のキリスト教の取締りを本格化し、黒船・イギリス船の来航を長崎・平戸に制限した)61(。これに反して、中国船はどこに来航しても、船主次第に売買することを認めている。幕府は、一六一六の元和二年八月八日令を公表する前に、異国貿易に関わっている大名たちの反応を懸念し、公式に発布する前に大名たちと交渉しようとしたのではなかろうか、と考えられる。一六一〇年本多正純の書簡で長崎を中国船との貿易港にするという方針があったため、異国船の枠にヨーロッパ船だけでなく中国船も含まれていたと考えられる。一六一四年五月、長崎奉行長谷川藤広は島津家久に、「次唐船之儀被仰下候、着岸之時分者、何様にも唐船次第可被仰付候)62(」と、唐船の大名領への来航の自由を認めていた。このように薩摩だけではなく中国船が渡航してきた九州一帯の大名たちも同じ立場であった。それが上記した元和二年八月八日令の追而書で認められたのである。また黒船・イギリス船の制限にもかかわらず、オランダ船に関する言及がないのはなぜか。一六〇九年オランダ側は日本来航について、オランダは長崎奉行を通じて日本の慣例に従い、日本の国内の自由貿易を目差していると)63(、その趣意を表している。オランダは他のヨーロッパ諸国と違って、布教には拘らなかったからであろう。この禁令ののち一一月八日に肥前・平戸藩主松浦隆信はイギリス・オランダの両商館長を招き、オランダ人に平戸・長崎以外での貿易を禁じ、それから舶載品の目録を提出すべきだという幕命を伝えた)64(。この元和二年八月八日令は、駿府政治が維持してきた外交の枠を大きく変える転換点となる。先行研究の多くは、浦賀貿易の失敗や異国政策の転換期として一六一二年のキリスト教禁止令をあげているが、それは幕府の宗教政策にすぎなく、異国政策の全般にかかわっているとは言いがたい。徹底した