ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
徳川家康の駿府外交体制(21)206ゆえキリスト教の布教を禁止する旨の書簡)50(を送った。しかし一六一三年幕府のルソン総督宛の返書)51(によると、貿易は継続することを望んでいた。幕府は宗教と貿易を別々の問題として扱っている。一六一五年浦賀港に来航したスペイン使節が、翌年八月二〇日)52(、すなわち後述する元和二年八月八日令以後に浦賀からマドリッドに帰着したが、スペインに帰国した使節の報告を受けたパラガ師は、スペイン国王にその報告を伝えた。その際、パラガ師は日本との国交は無意義であることを唱え、その理由として日本のキリスト教に対する厳しい禁教政策により改宗が難しい状況を説明し、ただ日本の事情が変わるのに何年間がかかると、日本の布教をあきらめていない姿勢をみせている)53(。キリスト教に対する日本側の拒否姿勢と、布教に対するスペイン側の執念が読み取れる。スペイン人は、布教を前提とした通商要求を行い、幕府の宗教・貿易政策に反しているにもかかわらず、日本と妥協しないで貫こうとした態度がみえる。このように両国の交渉の食い違いが大きかったことがわかる。このため結局、浦賀貿易は実現できなかった。注目すべき点は、一六一六年八月八日を境に幕府はスペイン側の主張してきた交渉のようにキリスト教と貿易の政策を一体化した外交方針に転換したことである。これについては後述する。もう一つの理由としてヨーロッパ諸国同士の誹謗中傷があげられる。上述した一六〇九年一月二〇日付の書簡と一六一五年九月の伊達氏とスペイン国王との協定の内容には、オランダ人を追放することと蘭英人排斥が必要条項としてあげられている。また一六〇九年にポルトガル人はオランダ人について)54(、右二船の日本に来り、平戸に入港したる以来、此叛人ハ決して歓迎すべからず、又長崎付近に留むべからざる旨を日本の君主に説き、此輩の性質を述べ、海賊にして日本に大なる利益ある商業を妨ぐるに至るべきを陳じ、又此二船ハ既になしたる如く、媽港船を捕獲し、又他に大なる悪事を行ふべきを以て、其出港を許可せざらんことを請へり、と、幕府にオランダ人の海賊行為について語り、オランダ船の出港を不可とするよう要請した。これに対し一六一一年にイギリス人アダムスはオランダ人の海賊説について弁明した)55(。また、その前の一六一〇年にオランダ人が家康に送った書簡の内容の中には、「それらの司祭たちが日本にいる目的は、外でもなく日本人を徐々に自分たちの宗教に引き入れて、それ以外のものに嫌悪の念を抱かせ、この方法で彼ら(日本人)を味方にしてから、彼らの宗教と他の宗教との間に論争を惹き起させることにある。こうして国内に騒動や戦乱を起こすことができるが、その際に司祭たちは己の思うままに成就する可能性は極めて大きい)56(」と語っている。ここでいう司祭たちはスペインの宣教師たちを指しているが、オランダ人はスペインの布教による日本国内の危機を警告している。互いに誹謗中傷をしていたオランダ・イギリスとポルトガル・スペインに対する日本の立場は、一六一一年のウィリアム=アダムスに対する待遇を通じて読み取れる)57(。アダムス君は皇帝の殊寵を受け、此国の大名と同じく遇せられ、親しく皇帝と談話することを得、□□少数の人のなし得る所にして、我等に取りて非常の便宜なり、アダムスは日本の大名と同じように待遇され、家康と親しく談話しているので、オランダにとって非常に好都合の存在であった。つまり家康は家臣のアダムスを信頼していたため、家康のオランダ・イギリスとポルトガル・スペインに対する待遇に影響が生じることは推測できる。家康外交への影響について、一六一一年の事例が挙げられるが、家康に献上品とともに謁見しにきたポルトガル大使とカスチリヤ大使に対し家康は一言もなかったが)58(、これに比べて家康はアダムスに二度の謁見を許した。また一六一五年スペインの遣日使節の一行が浦賀に入港したが、将軍に謁見できず翌年八月二〇日に帰帆した)59(。互いの誹謗中傷からみると、オランダ人の国外での海賊行為より、スペイン人による国内布教による日本社会の混乱の恐れが、家康にとって警戒すべき問題として捉えられていたと考えられる。そして家康は、しきりにポルトガルとスペインのイメージを失墜させ、貿易相手国から特にスペインを排除するようになったのではなかろうか。