ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(20)207シコ銀を防ぐために日本での中継貿易に着目し、日本を経由する中継貿易を通じて中国貿易の利益をあげようとした。これは、日本の長崎を経由する中国商品の物流ルート(「中国ー日本」)が、「浦賀ーメキシコ」とつながり、日本を中継地とする東西貿易ルートが企画されていたということであろう。すなわちスペインにとって浦賀港は、「中国ー日本(長崎)」と「ルソン・マカオー日本(浦賀)ーメキシコースペインーヨーロッパ」の二つのルートの結節点であった。従来、スペイン人は「メキシコールソン・マカオ」のルートを通じて中国商品を手に入れていた。換言すると、日本はスペイン船を浦賀港に招き、貿易を行うことによって、東アジアとヨーロッパをつなぐ「中国ー長崎ー浦賀ーメキシコースペインーヨーロッパ」の東西貿易ルートを構想していたと考えられる。三駿府外交の転換1、駿府外交交渉の不調家康は、長崎港を通じて中国から商品を輸入することを企図していた。そして浦賀港を通じてスペイン側の思惑どおりメキシコを経由してヨーロッパ諸国の品々が輸入されることを期待したのであろう。しかもスペイン人はルソン・マカオとの貿易の中継地として浦賀港を視野に入れていた。これからみると、浦賀港はヨーロッパと東アジアの貿易ルートをつなげる機能を持つ要として構想されていたといえる。しかし浦賀港は一六一六年を境に封鎖された。その直接的な理由として、日本とスペイン両国の貿易政策と宗教政策の食い違いと衝突と、ヨーロッパの四つの国同士の誹謗中傷という二つがあげられる。間接的な理由としては、中国との講和の失敗と、家康の死があげられる。直接的な理由について。日本が貿易と宗教の政策を別途に扱ったことに対し、スペインは貿易と宗教を一体化した政策を取っていた。ルソン総督ドン=ロドルリーゴ=ビベーロは、一六〇八年五月将軍秀忠と大御所家康に書簡)46(を送り、関東ヘ可乗入之由、加飛丹申付候、雖然海略(路カ)之儀候間、日域中者何所成共、風次第可入津之由申付候、彼加飛丹同船中之者共御馳走之儀奉仰候、将又貴国商船毎年四艘而已被渡候之様ニ被仰付候者可目出候、貴国居住之ふらて伴天連是□被加御哀憐候様奉仰候、と、カピタン(加飛丹)に関東への渡航を命じたので、カピタンや同船の者を世話してほしい、また日本の商船が毎年四艘ルソンに渡航するように命じて欲しい、日本に居住するフランシスコ会宣教師を保護して欲しいと、浦賀貿易・宣教師保護を願った。ルソン総督の任期を終えて、一六〇九年七月二五日にルソンのカビテ港を出帆しメキシコに向かったビベーロが、九月三日豊後の海岸に漂着した。ビベーロは一〇月末駿府城で家康に謁見し、日本に居住する宣教師たちがその修道院や教会に居住できるよう日本国王が保護して欲しい、日本国王とスペイン国王との間の相互提携を確実にして欲しい、スペイン人の不倶戴天の敵であるオランダ人を日本から追放して欲しいという要請文)47(を作成し、本多正純に渡したが、家康はそれを拒否した。一六一〇年一月、家康はビベーロとの交渉を再開するために、送還を待っていたビベーロを再び呼び出した。交渉の内容は、ビベーロが家康に提出した一六〇九年一月二〇日付の書簡)48(と同じで、①関東の港にスペイン人のための居留地を与えること、②キリスト教と教会を許可すること、③スペイン人鉱山技師の派遣要請については条件によること、④オランダ人を追放すること、⑤日本の港の測量を許可することを要求していた。一六一五年に伊達政宗の使節である支倉六右衛門常長がスペインに渡航し、九月四日に伊達氏とスペイン国王との協定を結んだが)49(、その内容をみると、①宣教師派遣、②日本船のメキシコ派遣、③海員に対する物資提供、④イスパンヤ船の款待、⑤イスパンヤ人の通商、⑥蘭英人排斥、である。前ルソン総督ビベーロの交渉内容と、スペイン国王の条約の内容が一致している。スペインは、一貫して協定の条件として宣教師の派遣とオランダ・イギリス人の排斥を前提としてあげていた。こうしたなか、一六一二年八月、岡本大八事件を契機に幕府は日本全国にキリスト教の禁止令を出したが、その前の六月にメキシコ総督に日本は神国