ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(18)2093、マニラ交渉と浦賀開港家康は、浦賀港の開港を構想し、一六〇一年に長崎代官寺沢広高に命じ、フランシスコ派フライ=ヘロニモを遣わしてルソン総督に書簡)34(を送った。他日本邦之舟到其地、則以此書所押之印可表信、印之外者不可許焉、弊邦與濃毘数般、欲修隣好、非貴国年年往来之人、則海路難通、所希求者、依足下指示、舟人船子時時令往返、ルソンに至る日本船は、ルソン総督に送った書簡に押された印をもって信を表すべきである。印がないものには商売を許可しないでほしい。また日本はメキシコ(濃毘数般)と通交を欲している。ルソンに毎年メキシコから往来する人でなければ、メキシコとの通航が難しいので、ルソン総督の指示によって、船頭や水主を時々日本に往来させてほしい、と述べている。また翌年、家康はルソン総督に書簡を送ってメキシコとの交隣の仲介を依頼した)35(。一六〇三年ルソン総督は家康の望みに従い、サンチアゴ号に貨物を積み、マニラより浦賀に渡航させたが、逆風で入港できなかった。それに家康が失望したため、一六〇四年堺に停泊中のマニラのスペイン船を浦賀に廻航させたのが、初めての浦賀入港である。同年、ルソン総督ドン=ペドロー=デ=アクーニャは家康に通商を要求し)36(、キリスト教(サン=ドミンゴ派)の布教を請う書簡を送った)37(。翌年家康はルソン総督の要請どおりに毎年商船四艘の通航を許可した。一六〇六年にフランシスコ派の宣教師たちが商売のためにマニラから出航し、家康の希望通り浦賀に入港した)38(。一六〇八年に幕府は浦賀港に「定」を下し)39(、「対呂宋商船、狼籍之儀堅被停止之訖、若於違背之輩者、速可処厳科之旨、依仰下知」と、日本人がルソン商船に対して狼籍を働くことを禁止し、スペイン船の浦賀貿易を保護する方針を明らかにした。日本にとって浦賀港の開港は、まずルソン船の来航を誘致し、次にメキシコとの通交を結んで鉱山技師を招くことが狙いであった。幕府は当時金銀の採掘に力を入れていた。駿府は鉱山奉行を管理し、また幕府の財源として金銀も直接に管理した。一六〇二年に佐渡・石見銀山を開発し、金銀の採掘量は大きく増加していた。一六〇四年に白根(岩手県)、五年に西道・陸奥会津檜原山の石ヶ森(福島県)で金を掘り、翌年伊豆国金山で銀がとれた。家康は一六〇六年から毎年イエスズ会の宣教師が謁見する度に、伊豆銀山を見せていた)40(。家康は一六〇九年にメキシコへ鉱山技師の派遣を要請した。この要請をスペイン側は、当時の日本の鉱山技術では鉱石から銀の半分も採取できなかったからだとみていた)41(。鉱山技師の派遣要請は一六一〇年にも続いた。前ルソン総督ビベーロの乗船した船が浦賀を出帆し、メキシコに向かったが、この船に家康の要請を受けたフランシスコ会修道士アロソン・ムニョスと京都の商人田中勝介がメキシコとの貿易開始交渉のため便乗した。翌年、初めてメキシコ総督の使節ビスカイノ一行が浦賀に到着した。しかしメキシコ鉱山技師の派遣は実現できなかった。この鉱山開発は、一六〇四年に始まった糸割符制度と関係があり、この生糸を輸入するために日本銀が支払われたことが重要なポイントである。当時ポルトガル船が生糸を積んで長崎に来航し、この時期からポルトガルによる日本での中国生糸の輸入が主導的に行われた。一六一二年からオランダ・イギリスによる中国生糸の輸入が不可能になった一方、スペインはポルトガルと手を組んで、中国生糸の輸入が可能であった。家康は、長崎奉行に命じて糸割符仲間を作らせ国内利益を優先し)42(、駿府に生糸座を設置したが、一六〇四年に初めて京都・堺・長崎に糸割符年寄を置き、生糸貿易を管理した)43(。つまり日本銀と中国生糸の交換は、日明貿易の基礎であり、日本銀の増産は日明貿易に寄与するものであった。スペイン側の浦賀貿易に対する意図は次のようであった。一六一三年に伊達政宗が支倉六右衛門常長をローマ教皇とスペイン国王に派遣した際に、使節としてフランシスコ会修道士ルイス・ソテロ及びビスカイノを同行させた。その使節(前の三人のスペイン人)がメキシコ総督に呈した覚書は、スペイン国王とインド顧問会議・インド会議議長宛に書き送るべきことが記録されている)44(。すなわちこのスペイン人は幕府の意をメキシコ総督に伝え、スペイン国王に浦賀貿易の利益について次のように語るように頼んだ)45(。陛下が国益と貿易の便宜との為め、全領土に於て努めらるゝところは、商品の輸出入に際して、金銀の流出を防ぐことなり、然るに、現在、支那の貿易に於ては、金銀多く国外に流出す、日本の貿易に於ては、之に