ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
徳川家康の駿府外交体制(17)210の福建商船が長崎港に来航することを求めたが、明は応じなかった。そのため次に、家康は琉球を仲介とする明との交渉を図り、一六一四年に琉球国王尚寧から福建軍門に書簡)27(を送らせ、①日本商船に明への入港を許可する、②明商船が琉球に来航して貿易を行う、③琉球から毎年明に遣使して貿易を行う、という日明関係の三つの案を提示した。そしてそのうちの一つを受け入れることを要求したが、琉球は明が一切拒否したと、一六一五年に薩摩藩を通じて幕府に伝えてきた)28(。2、朱印船制度の様態日明講和交渉が不調に終わり、家康は正式に日明貿易を成立させることができなかったが、中国は日本にとって欠かせない貿易相手国であった。また秀吉の「唐入」=朝鮮侵略による緊張は、明・朝鮮・琉球だけではなく、東南アジアまで及んでいたのでないか、と前節で述べた。一六〇一年五月に安南の商船が来航し、交隣関係を強調し日本船の渡航を希望した。これに対し同年一〇月に家康は異国に渡航する日本商船は書印を証拠とし、無印の船には商売を許可しないでほしいと、いわゆる朱印船制度を提案した)29(。また同年、家康はルソンとの通商をはかった。このように家康は一六〇一年に朱印船制度を働きかけ、四年以降、朱印船は信州・毘耶宇・高砂・西洋・安南・東京・順化・交趾・迦知安・占城・柬埔寨・田弾・暹羅・大泥・呂宋・蜜西耶・摩利加・?莱・摩陸の一九地域に渡航した。一六一三年にスペイン人は家康の朱印船貿易について次のように理解している)30(。皇帝が外国を征服することを思はざるは、真実なるが如く、その国の周囲には、シャム、ペグー、カンボージヤ、ボルネオ、シャムロ、交趾、琉球、タカサンド別名イスラ・エルモサ、その他多くの地ありて、日本の船は、此等の地方に航海すれども、今日まで、曾つて戦争をなして、之を占領せんとしたることなく、只諸国との貿易を希望するのみなり、史料中の諸国は、朱印船が渡航した国々である。スペイン人は朱印船貿易について、これらの地域に日本船が渡航するが、家康は今日までかつて戦争を行って占領しようとしたこともなく、ただ諸国との貿易を希望するのみであると述べている。次に、家康は日本に来航するヨーロッパ船のために三つの港を開港した。この三つの港の設定は、東アジアの航海領域をめぐるヨーロッパ諸国同士の争いや対立が日本にまで及んであり、それに巻き込まれないためである。ポルトガル船は、大村純忠が開港した長崎に、一五七〇年に初めて入港した。そして一五八二年にローマ教皇とイエズス会総会長より日本イエズス会は「マカオー長崎」貿易を許可された。ポルトガル船はすでに一六世紀末以来、マカオから長崎に来航していた。前述のとおり、長崎は一六一〇年に本多正純が福建総督に書簡を送り、日明講和の暁に中国船の貿易港にする計画があった)31(。家康は一六〇一年にルソンのスペイン人と交渉を行い、浦賀をスペイン船に対し開港しようとした。当時スペインはルソンとメキシコを結ぶ太平洋の交易路を開拓していた。一五九六年のサン=フェリペ号航海図写)32(によると、メキシコからルソン・マカオまでの航路が描かれている。浦賀港は「メキシコールソン・マカオ」ルートに面していた。オランダとイギリスは、ポルトガルとスペインより日本との通商交渉が遅れていたが、一六〇〇年にリーフデ号が豊後国臼杵に漂着したことをきっかけに日本との関係が始まった。オランダは一六〇九年に日本と通商関係を結び、平戸に商館を開設した。一方、イギリスは一六〇三年バンタンを根拠地として東南アジア諸国と通商を開始し、一三年に日本と通商関係を結んだ。イギリスはアダムスを通じて日本で商館を開こうとしていた。アダムスはすでに平戸にオランダ商館があるため、イギリス商館の候補地として浦賀港を希望していたが、幕府はイギリス商館を平戸に置くよう命じた)33(。前節で述べたように東南アジア海上でのヨーロッパ諸国の船が衝突していた事情を踏まえて考えると、ヨーロッパ諸国が日本で利益の争いや対立を起こす恐れがあり、家康は長崎と平戸、浦賀という三つの開港が必要と考えたのである。