ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(16)211角倉の献上品を取次いでいた。また後藤庄三郎は、スペイン人の駿府登城に参加したり、異国から書簡を受けたり、異国との貿易に積極的に参加していた。ただその異国とはルソンやマカオなど、すべて長崎に出入りするカトリックの国に限られている。そもそも後藤庄三郎は、一五九三年家康が御金改役に任命して以来、貨幣鋳造の最高責任者になった。生糸を輸入するために銀が支払われたので、銀の確保のために家康は鉱山を直轄地にし、流通経済の中枢をなす大坂・江戸・京都の三都を幕府の支配下に置いていた。この史実からみると、後藤は国内市場と生糸貿易の貨幣(銀)だけではなく、朱印船商人たちの駿府・江戸への献上品まで取り次いでいた。諸寺のことは、金地院崇伝が国内の寺院の行政や、異国渡海朱印状の作成を行っていたことである。異国渡海朱印状の作成は、一六〇八年以前は豊光寺承兌が、その後は国光寺元佶が行ったが、一六一二年から金地院崇伝が担っていた。崇伝は、異国からの書簡への返書を起草し、後藤・長谷川などから紹介を受けた人々に異国渡海朱印状を書いて渡すなど、外交文書を作成した)20(。「東照宮御実紀」の一六一一年九月の記事にも異域・貨財・寺社と同様のことを述べている)21(。以上、東アジア情勢に対応するために、駿府政治のもとで異国担当のブレーンらが外交実務を担っていたことがわかる。二東西貿易の構想1、日明講和交渉前述した外交課題を抱えていた家康は、国内の外交実務だけでなく外向けの対策に取り組んだ。家康は朝鮮侵略後の日明講和を追求し、その一環として、朝鮮との講和交渉に取り組んだ。さらに秀吉政権下に成立した日琉関係を家康政権下においても継続することを求めた。家康は、一六〇〇年に島津義弘・忠恒(のちの家久)と寺沢広高に命じて明将茅国科を明に送還し、「本邦朝鮮作和平、則到皇朝亦如前規以金印勘合可作往返)22(」と要求した。金印は日本国王を、勘合は公貿易を示唆している)23(。家康は日本国王として日明貿易を希望していたのである。家康は、「唐日本和睦ナトノ事ヲ申候ヲハ、其ハ高麗口ヨリ対馬ノ取次ニ候、日本ハ法度ニテ、脇ヨリ不取次ト申候)24(」と、朝鮮に日明講和交渉の仲介役を期待していた。そのため、日本にとって朝鮮との講和は先決すべき課題であった。一六〇二年朝鮮から全継信・孫文彧が対馬に来て和好のことを議した。一六〇四年に孫文彧・僧惟政が対馬に来て和好を議し、翌年宗義智が両使を導いて伏見城に登った。朝鮮は講和の条件として、先に家康の国書を送ることと、朝鮮国王の墓を荒した犯人を引き渡すことを要求した)25(。一六〇六年に宗氏が家康の国書を朝鮮に送ったことにより、翌年朝鮮から回答兼刷還使が来日し、日朝間の国交が回復した。しかし朝鮮は日明講和の仲介に応じなかった。同時に家康は琉球にも外交交渉を働きかけた。秀吉は、島津氏が琉球に朝鮮侵略の軍役を転嫁することを認め、琉球を「与力」として動員させた。これが秀吉政権下に成立した日琉関係であり、家康はそれを受け継いで、一六〇二年冬陸奥・伊達政宗領に漂着した琉球人を島津氏に命じて琉球に送還し、来聘を要求したが、琉球は応じなかった。家康は一六〇六年に薩摩に琉球侵攻を許可し、九年に薩摩は琉球侵攻を実行した。一六一〇年琉球国王尚寧は駿府で大御所徳川家康に、江戸で将軍徳川秀忠に聘礼を行った。同年、家康の意を受けた本多正純は福建総督に書簡を送り、勘合復活(日明講和)を要求し、「明歳福建商舶来吾邦、期以長崎港為湊泊之処)26(」と、明日本異国商売①貨幣鋳造(金銀)②国内商人(京都・大坂・堺)の取次③ルソン・マカオ・安南との書簡のやりとり異域①異国人の駿府・江戸上りの案内・同行②異国船の来航③生糸の購入:将軍の買物掛④朱印船(日本商船)の渡航⑤異国人の献上品の取次諸寺①国内寺院の行政②異国渡海朱印状・外交文書作成