ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
徳川家康の駿府外交体制(15)212安南国ヘ遣シ、毎年往来ス、後籐少三郎取次ニテ言上シ、紅糸、緋紗綾、沈香、縮砂、斑猫、葛上亭長等ノ薬物ヲ献ス、②神君慈仁ニマシ??ケレバ、万幾ノ暇ニハ、細微ノ事ヲモ捨タマハズ、異域ノ事ハ、長谷川左兵衛藤広申上ゲ、商売ノ事ハ、後藤少三郎申上ゲ、諸寺ノ事ハ、金地院崇伝長老申上ゲシム、天下ノ人々、産業安佚ナラン事ヲ計ハセ給フ、是月、興福寺長谷寺戸隠山ヘ、各法制ノ条目ヲ下シ賜フ、又曹洞宗ヘ、法制を下シ賜ヒ、?寧寺・龍穏寺・大洞院ニ仰付ラレ、関東一宗ノ事ヲ裁断セシム、京師商人大黒屋交趾国ニ行ク、御朱印ヲ賜ス、史料は一六一二年のもので、この記事を通じて駿府外交の構造がうかがえる。それについて述べる前に、当時異国人が日本国内でどのような商売を行っていたか、異国人の日本国内における商売の様子をみると、一六一三年にイギリス商館長リチャード=コツクスをはじめ社員七人は、対日貿易に関して次のように語っている)13(。我が国に於て需用の少い貨物を販売し、支那から輸入する生糸・絹織物を仕入れるため、ジャンク船一隻を仕立てゝ、毎年二月初支那のジャンク船の来着する頃、パタニに入港し、それから暹羅に行き、蘇枋木・鹿皮・鮫皮等を買入れさせることゝした。又対馬に館員を派遣し朝鮮通商の手段を講ずること、及び駿府・江戸両地間位に京都・大坂・堺の間に各一人の館員を置いて直接取引をさせることに定めた。そしてウイリヤム・アダムスはジャンク船の船長として航海に従事し、暇の時は幕府の交渉の際通訳の用を務める事を命じ、又江戸にはウイツカム、京坂にはイートン、対馬にはセーヤースを派遣することにし、何れも慶長十九年の正月に出発した。(後略)イギリスで需用の少ない貨物を東南アジアの東インド会社の各商館で販売し、中国の生糸・絹織物を仕入れるため、ジャンク船を一艘用意して、毎年二月初に中国船がパタニに来る頃、パタニに入港し、さらにシャムに行き、蘇枋木・鹿皮・鮫皮などを購入する。また対馬に館員を派遣して朝鮮との通商を講ずること、駿府と江戸、京都・大坂・堺に各一人の館員を置いて直接商売することを定めた。そしてウィリアム=アダムスは船長として航海に従事し、暇なときに幕府の交渉の通訳を務めることを命じ、江戸にはウイツカムを、京都・大坂にはイートンを、対馬にはセーヤースを派遣することを決めた。そしていずれも一六一四年正月に派遣した。当時イギリス人は平戸に商館を置いて日本とパタニ・シャムをつなぐ貿易ルートを作り、日本を相手に中国産生糸の貿易を行っていた。一六一二年からオランダ・イギリスの東インド会社は中国と直接の通商関係を結ぶことに失敗したため、日本へ運ぶ中国産物が不足していた)14(。それゆえ、オランダもイギリスも東南アジアを経由し中国産生糸や品々を購入しようとした。さらに対馬を通じて朝鮮との貿易も図った。しかし朝鮮との貿易は成功せず、ただ「ウイツカムとイートンの両人が江戸及び京坂地方に出張して直接取引をしたことは前に述べたが、其成績は相当に好く)15(」と、日本国内の市場では利益を得ていた。家康は国内市場で異国人の売買行為を許していた。ちなみに、この異国人の国内出張は後述する元和二年(一六一六)八月八日令により禁じられた)16(。この事実を背景に、上記の「異国人来ル事」を検討すると、異域のことは長谷川藤広が、①異国人の駿府・江戸上りの案内及び同行、②異国船の来航、③生糸の購入(将軍の買物掛)、④朱印船(日本商船)の渡航、⑤異国人の献上品の取次、などを担っていたことを指している。家康の側近である長谷川藤広は長崎奉行として将軍の買物掛を勤めていた)17(。長崎奉行が幕府の指示にもとづき、「将軍の糸」として輸入生糸を優先的に購入していた。一六〇四年五月に家康は初めて京都・堺・長崎に糸割符年寄を置き、生糸貿易の統制を定めた。長谷川藤広は、「二年前、カスチリヤ人が三十匁の価を要求せる生糸を、二十三匁にて買上げ、去年は、支那人が四五十匁の価を称へたる生糸を、二十四匁にて買上げたり)18(」と、生糸の価格交渉にも関与している。一六一一年九月に家康は長谷川藤広を通じてルソンや占城に貿易に関する書簡を送った)19(。長谷川藤広は家康と異国の間をつなぐ役割を果たした。商売のこととして、後藤庄(少)三郎(光次)は異国に渡航する京都商人角倉与一の取次ぎであった。角倉は朱印船貿易家の一人であり、後藤庄三郎が