ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
- ページ
- 216/230
このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている216ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている216ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
徳川家康の駿府外交体制(13)214はじめに秀吉政権を受け継いだ徳川家康の外交の基本政策は、朝鮮侵略の戦後処理と、明との国交を回復することにあり、一方で、家康は朱印船制度を設け、異国渡航の日本商船の安全と異国との善隣関係の貿易政策に取り組んだ。従来の家康外交に関する研究は、次のような観点から考えてきた。一つ目は、日明講和交渉の過程で、家康は日本型華夷意識をもって中華秩序の朝貢関係を拒み、日本中心の外交関係を築いたという見解が多くある)1(。二つ目は朱印船制度に関して、周辺諸国との交隣関係を追及し、中国貿易を補完する出会い貿易として評価されている)2(。三つ目は浦賀貿易)3(に関して、家康がスペインと国交正常化のために交渉し、浦賀開港の経緯・展開が明らかにされている。そのなか、浦賀貿易は秀吉のマニラ交渉や朱印船制度との関係があると指摘していながらも、マニラ交渉や朱印船制度がどのように浦賀開港につながるかを明確に提示していない。そのほか、キリスト教禁令や平戸・長崎商館に関する研究)4(などであるが、従来これらの研究は対東アジアと対ヨーロッパという二つの見方に明らかに分かれている。家康の外交体制を把握するためには、この二つの見方を包括的に検討する必要がある。本稿は、これらの研究を踏まえて家康が東アジアとヨーロッパの二つの世界をつなぐ架け橋として日本の外交や貿易をどのように構想して行ったのか、という視点をもって徳川家康による日明講和交渉と浦賀開港の政策を中心に駿府外交の構想を追究する。一駿府外交の形成1、外交上の課題一六〇三年に成立した徳川幕府は、国内外においてさまざまな問題を抱えていた。特に外交で直面している現実として次の二つがあげられる。その一つは、秀吉の対外政策(朝鮮侵略・出仕要求)が生成した東アジアの緊張の解消である。一五八五年関白に就任した秀吉は、全国統一の暁に「唐入」=明出兵を行うことを宣言した。これに呼応するかたちで秀吉は、朝鮮(一五八七年)を初め、琉球(一五八八年)に日本への出仕を要求し、翌年島津氏に明が日本との勘合を望むよう交渉を命じた。その後、一五九〇年に全国統一を果たした秀吉は、同年蝦夷にも出仕を要求し、その外ルソン(一五九一年)・インドのゴア(一五九一年)・台湾(一五九三年)に日本への出仕を要求した。この間、秀吉は一五九二年に朝鮮侵略を実行し、侵略を被った朝鮮と、朝鮮に援軍を派遣した明、その戦争に島津氏の「与力」として動員された琉球など、日本周辺の明・朝鮮・琉球において秀吉の脅威が広がった。こうした秀吉の対外政策は、秀吉の「三国国割計画」すなわち日本・明・朝鮮の三ヶ国支配構想、すなわち秀吉自らが寧波を居所とする、日本中心の国際秩序の構想につながっている)5(。このように東アジアのなかに広がっていた緊張を払拭することが、駿府政治が抱えた外交課題になったと思われる。二つ目は、日本がヨーロッパ諸国から受ける脅威である。一四九四年スペインとポルトガルはトルデシリャス条約を結び、世界の航海領域をベルデ岬徳川家康の駿府外交体制││駿府外交の構想について││張慧珍WASEDA RILAS JOURNAL NO. 1 (2013. 10)Abstract