ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

水陸会における千手観音の役割に関する一考察(7)220養。」、つまり金が国家をあげて「栴檀瑞像」を燕京へ迎え入れ、七昼夜にわたって水陸会を設け、後に閔忠寺にこの像を奉安し、供養した、というのである)41(。これらの例に共通するのは、いずれも特定の像と水陸会とが組み合わせられていること、そして像の新造または迎え入れという行為があって水陸会が成立していることである。これらのうち、太宗が迎え入れた「栴檀瑞像」とは、釈尊時代の?賞弥(カウシャーンピー)の国王、優?王が釈尊の在世中に作らせたという最初の仏像を指す。中国においてもこの像への憧憬はきわめて強く、根本像またはその写しが同地へ伝えられたことを記す文献が数多く存在する。中でも太宗が獲得した像は、鳩摩羅什とその父?によってもたらされた根本像であるとの伝承を持つもので、太宗以前には北宋の宮中に置かれていたという由緒がある)42(。また、蘇軾が描かせた釈迦十大弟子像も同様に、水陸会を開催する発端となった像である。こうした由緒に鑑みれば、これらの像は前章で述べたように、法会の主壇に、本尊として置かれたと考えられるのではないだろうか。孝宗が造らせたという千手観音塑像の例は、水陸会の発端とはなっているものの、他の二像とやや性質を異にする。というのも蘇軾の釈迦像や金太宗の栴檀瑞像が移動可能な像であるのに対し、孝宗の像は、寺の堂宇の主尊であったことが垣間見えるのである。先に『咸淳臨安志』の本文を引用した。選者潜説友はその後に、本文を執筆する上で参照したと思しい史料を幾つか掲載するが、その部分を見ると、千手観音の下りは、「何參政澹撰寺記」(以下、「寺記」)なる史料からの引用であることが分かる。ちなみに「何參政澹」とは、『宋史』巻三九四、列伝一五三に伝が立つ何澹(字自然、處州龍泉の出身)のことである。何澹は乾道二年(一一六六)に進士となったが、彼が「寺記」の題名にも見える參政を務めたのは慶元二年(一一九六)から嘉泰元年(一二〇一)のことであった。となれば「寺記」もやはりその頃に編んだのであろう。つまり何澹の「寺記」は孝宗による紹熙元年の千手観音造像と水陸会開催について伝える、同時代史料ということになる。そして同記の該当箇所を見るとそこには「別創観音道場、作水陸大斎所於西偏」とあるのである。文頭に「別」とあるのは、これ以前の部分では主に、金軍が南宋の都臨安に攻め込んだ建炎元年(一一二七)の兵火で焼失し、その後復興した、崇福寺の根本伽藍の沿革について記すためである。つまり、「寺記」の記述によれば、単に千手観音の像だけでなく、像を主尊とする堂も含む、「道場」を寺内に創建し、その道場の西偏に「水陸大斎所」を作ったことになる。この千手観音像を本尊として水陸会を勤修したという確証はないものの、千手観音像を本尊とする「道場」で水陸会を開催することを、孝宗が重視したことが分かる。ところで、宋の皇室が観音信仰を格別に重視しており、霊験仏として名高い臨安上天竺寺の観音像を度々宮中へ「迎請」し、祈雨などの儀式を行っていたことはよく知られている)43(。また、『仏祖統記』巻五二には高宗の代に、「金虜入杭。上親詣上竺大士殿恭祈、爲戦没者修水陸供。有夢戦死者相慶得生善趣)44(。」、すなわち、金軍が杭州へ攻め入ったため、皇帝自ら上天竺寺の大士殿へ詣でて祈り、戦没者の為に水陸会を行った結果、夢に戦死者があらわれ、善趣に生まれ変わることが適ったとよろこんだ、とある。孝宗が紹熙元年に千手観音像を主尊とする道場を構えて水陸会を開催した背景には、このような熱心な観音信仰があったのである。前章で述べたように、水陸会の儀軌には、本尊として用いるべき像についての記述は見当たらない。しかし、本章でも確認したように儀軌以外の文献においては、水陸画以外で水陸会に関与した像として、釈迦像や千手観音像が登場する。前章では水陸会の催された寺院堂宇の主尊が、そのまま水陸会の本尊として用いられた可能性について指摘したが、水陸会の本尊とは特定の尊種である必要はなく、状況に応じてさまざまな尊種がこれを務めた可能性が考えられるのではないだろうか。そうであるとすれば、崇福寺の水陸会が、皇室があつく信仰した観音像を本尊として行われたとしても、不思議はない。五、水陸会に期待された功徳尊種について特に規定はないとしても、水陸会の本尊としてはやはり、人々がこの儀式に期待する功徳を投影し得るような像が望ましかったと考え