ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNAL(6)221三蔵であり、壇に臨んで宣文し、仏事をつかさどるのが法師である、と説明される。つまりここでは、法会において水陸画以外にも、「仏」や「壇」といった像や設えが登場する。そしてその前では、儀式を進行させる上での主軸となる所作、「持呪」、「宣文」、「仏事」などが実施されていたらしい。先に述べた通り、楊鍔の頃には実に様々なかたちの水陸会が乱立していた形跡が見える。「水陸院」と呼ばれる専用の堂以外に、これらの儀式が具体的にどのような堂で行なわれていたかについては現在のところ記録が見当たらない。しかし、この儀式が大流行していた十一世紀、十二世紀頃には、恐らくは諸寺院にもとから存在した堂において、その堂の主尊を「主壇」の像として勤修することもあっただろう。それでは次に、実際に開催された水陸会についての記録に水陸会の本尊と見なせる像についての記述が残るかを確認してみたい。四、水陸画以外の礼拝像についての記録諸史料には、儀式における具体的な用法については記さないものの、法会に関与した像が水陸画以外にもあることを示唆する記述が散見される。例えば、蘇軾の「釈迦文物頌」(『蘇東坡全集』後集巻十九)には、蘇軾が亡き妻のために「敬画釈迦文仏、及十大弟子、元祐八年(一〇九三)十一月十一日、設水陸道場供養」とあり、妻の供養を目的として釈迦と十大弟子の像を画き、水陸会を設けたことが分かる)39(。また、咸淳四年(一二六八)頃に成立した潜説友纂修『咸淳臨安志』崇福寺条には、南宋の皇帝孝宗が、紹熙元年(一一九〇)に「塑千手観音像、作水陸大斎所於寺之西偏」と見える。ここでもやはり、皇帝が造らせたという格別な権威を持つ、新たな像を迎えて法会を設けていることが確認される。さらに、『金史』巻二三、五行志によれば、天会九年(一一三一)七月、金の太宗が臨?府(現在のモンゴル自治区、赤峰市巴林東旗林東鎮南郊)にて政務を行っていた際、東の楼閣の外に光明が生じてその中に高さ五丈ばかりの仏が顕現し、帝がこれを恭しく拝跪する、という出来事があった)40(。そして『仏祖歴代通載』巻二〇によれば、この奇瑞があった同年、「金国迎請栴檀瑞像到燕京建水陸会七昼夜、安奉於閔忠寺供図2『法界聖凡水陸大斎普利道場性相通論』所載「方壇」図1『水陸儀軌会本』所載「水陸内壇上下堂位次図」