ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(4)223が記した「水陸大斎霊跡記」(以下「霊跡記」)である。同記はおおよそ次のように記す。ある時梁の武帝は夢に高僧を見る。そしてその高僧から、あまねく衆生を助け、幽顕を利楽する、「水陸広大冥斎」を設けるように、と勧められる。その後、高僧志公(宝志)からの助言を受けて大蔵経論に広くあたったところ、かつて仏弟子の阿難が焦面鬼王に会って施食を行った経緯を知ることができ、これをもとに儀文を作り、天監四年(五〇五)に金山寺(現在の江蘇省鎮江市にある)で水陸会を催した。その後隋唐の間にこの儀文は途絶えたが、唐の咸亨二年(六七一)に、長安僧、道英禅師がこれを入手して斎会を復興した、という)23(。ただしこの内容は唐代に成立した『面然経』や『焔口経』に依拠するものである。このことから、儀式や儀軌は実際には梁代まで遡らないとされる。また、千手観音の甘露手と宝雨手とも関わりの深いこれら両経は、「諸仙には食を流水に致し、鬼には食を浄地に施す」ことを説いている。したがって、これら両経が、水陸会の成立基盤の一つとして、大きな役割を果たしているというのが、現在の通説となっている)24(。初期の水陸会については、最も早い記録では陳思の『宝刻叢編』巻十五に、「唐修水陸無遮斎題太和七年六月諸道石刻録」とあり、太和七年(八三三)には法会が設けられていたことがわかる)25(。この他にも『延祐四明志』巻十六には「境清興法寺在東南隅、唐咸通二年(八六一)建始僧鴻紹因南門外水陸院基為柳亭院」とあり、また『嘉泰会稽志』巻七の大中祥符寺条には、「唐中和二年(八八二)僧可?建号中和水陸院」とあるなど、晩唐頃には各地で水陸会が行われていたことが確認できる)26(。これらの儀式については詳細が不明であるものの、宋、黄休復撰『益州名画録』には、後蜀の中和年中(八八一?八八四)に蜀に居住していた画家の張南本が、成都、宝暦寺の水陸院のために、「天神地祇、三官五帝、雷公電母、岳?神仙、自古帝王、蜀中諸廟一百二十余幀」を描いたとの記述が見え、多くの水陸画を道場に掛け巡らす儀式の形態がこの頃既に成立していたことが窺える。ただし、儀軌の整備が始まったのは、これら初期の儀式よりは大分後のことであったらしい。現在知られている最古の儀軌は、楊鍔が北宋熙寧四年(一〇七一)に編んだものである(以下、楊鍔本)27()。蜀で成立し、流行したこの儀軌は、三巻構成で武帝の旧規にもとづいており、最も古に近いものであったと言う)28(。儀軌の全体は残らず、「初入道場敘建水陸意」、「宣白召請上堂八位聖衆」、「宣白召請下堂八位聖凡」、「水陸斎儀文後序」、の四部分のみが『施食通覧』への引用というかたちで残っている)29(。また、『施食通覧』は、北宋の元祐八年(一〇九三)に亡き妻を偲んで開催した水陸会(「眉山水陸」)で用いた、「十六位」の水陸画について蘇軾が作成した、賛を載せる。蘇軾の挙げる十六位は、楊鍔の儀軌に列挙されるそれと名称、順序ともに一致しており、蜀の眉州眉山の出身であった蘇軾がやはり同系統の儀軌を用いていたことが確認される)30(。この他にも、現存はしないものの雲門宗の禅僧、長廬宗?は紹聖三年(一〇九六)に記した「水陸縁起」の中で、江淮など蜀以外の地でも水陸会が流行し、儀式が増広されていること受けて、自身が諸家の儀文を刪補詳定してほぼ完全なものにし、四巻の儀文を編んだと記している)31(。このように儀軌が立て続けに整備されていることに鑑みても、北宋の十一世紀末に、さまざまな形態の水陸会が大流行していた様子が窺われる。さらに、南宋の乾道九年(一一七三)になると、皇帝孝宗の宰相であった史浩が、金山寺で行われていた大規模な水陸会を目の当たりし、これに影響を受けて四巻の儀文を製している(現存せず。以下、史浩本)。そして南宋の末(咸淳五年、一二六九以前)に至ると、史浩の儀文は皇帝や官僚を偏重し、貴賤貧富に対して平等ではないとの批判を受けて、志磐が新たに六巻の儀文を編み直し、経典中に記す名位によって、絵像二十六軸を製作した)32(。つまり水陸会は、史浩の頃には、皇帝までもが積極的に関わる国家行事まで発展していたのである。その後明代になって、?宏(一五三五?一六一五)が志磐の儀軌を重訂して『法界聖凡水陸勝会修斎儀軌』(以下、?宏本)を編むが、以降現行本に至るまでの儀軌はいずれも?宏本を底本として清代以降に改訂を加えたものである)33(。このように、九世紀前半から営まれていた水陸会は、奇しくも各地で千手観音の巨像を大閣に安置する例が増える北宋の十一世紀後半には中国の各地で大流行し、十二世紀末には国家が主催するほどになっていたことが分かる。