ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

水陸会における千手観音の役割に関する一考察(3)224られることである。すなわち、南宋、袁説友撰『成都文類』巻四〇所引「大中祥符禅院大悲像閣記」は、次のように記す。(紹興)十七年(一一四七)季春、役工彫造千手眼大悲像、至二十一年孟冬、像成。立高四十七尺、横広二十四尺。復于二十二年季春、則故暖堂基而像建閣、閣広九十尺、深七十八尺、高五十四尺、于紹興二十二年三月七日閣就、奉安聖像于其中。この記事からは、紹興年間に高さ約十四米、幅約七米の巨像が造られ、続いてこの像を安置するために桁行約二十七米、梁間約二十三米、高さ約十六米の閣が建てられたことが知られる。像と建築の規模からしても、寺院の主要堂宇になったと見ることができる。大中祥符禅院は、晩唐期には三十院をかかえたという大寺院、聖寿寺の一院である。聖寿寺は、六世紀末に隋室の蜀王楊秀が空慧寺として創設し、唐代には三蔵法師玄奘も学び、受戒した古来の名刹である)18(。大中祥符年間(一〇〇八?一〇一六)に勅額を賜り、「大中祥符禅院」と呼ばれるようになった。また、この他にも『成都文類』巻三九所録、紹興十一年(一一四一)撰「増修大悲閣記」に「元豊壬戌、有大法師、敏行其名、造大悲像、端厳妙好、千臂千手、千耳千目、復建大閣、厳覆像貌」とあり、元豊壬戌(一〇八二)に僧敏行が千手観音像を造らせ、続いて像を覆う「大閣」を建てたことがわかる。像の規模について記述は無いものの、大閣に見合う規模のものであったと考えられる)19(。閣の内部には、千手観音という主尊に合わせて観音十堵、楞厳変相十八堵、八明王八堵、絨毯観音などが描かれていたという)20(。この堂があった大聖慈寺は唐の至徳年間(七五六?七五八)に勅建され、玄宗の勅額を賜った成都最大の寺院であり、往時には九十六もの院が軒を連ねていた)21(。また、やや後代のことにはなるが日本に渡った禅宗の高僧、蘭渓道隆が学んだ寺としても名高い。このような千手観音の巨像を擁する堂宇は、この時期中国の各地で建てられていたらしく、宋、程倶(一〇七七?一一四四)撰『北山集』巻十九「衢州(現在の浙江省衢州市)大中祥符寺大悲観世音菩薩閣記」によれば、紹興二年(一一三二)に管内僧正の妙空大師が、布施を募り私財を投じて「大仏殿の後」に大悲観世音、つまり千手観音像を造らせ、これを「大閣」で覆ったという。像を造ったのちにこれを建築物で覆うという手順は成都の大中祥符禅院や大聖慈寺と同様であり、移動が困難な巨像であったため、あらかじめ安置場所に造ったものと考えられる。そして、大仏殿後の「大閣」というからにはやはり寺院の主要堂宇であったのであろう。以上、主に宋代の十一世紀から十二世紀にかけて、以前から存在した像に屋根を架けて人々が集える空間を作る、または新たに像を造って、寺院の主要堂宇となり得る規模の建築物でこれを覆うなど、千手観音の巨像が特に注目を集め、大型法会の場となり得るような空間に置かれるという現象が見られることを確認した。そして、こうした巨像の現存作例が、造形の上でも餓鬼への施食や衆生への施しといった功徳を特に強調しており、施餓鬼会の一種である水陸会の本尊として相応しい特徴を備えている、との指摘がなされていることを述べた。それでは、水陸会とはそもそもどのような儀式で、十一、十二世紀までにどのような発展を遂げてきたのだろうか。まずは水陸会の概略と起源について簡単に述べた上で、儀式と儀軌の展開を追ってみたい。二、水陸会の沿革と儀軌の系統水陸会とは、普く十界に食を施すことで功徳を積み、幅広い利益を享受することを目的とする儀式である。現在の儀式は「内壇」と「外壇」で、七日間にわたって開催される。儀式の中核となるのは内壇である。内壇の道場内には四面の壁に沿って上、下堂、の「席」を設け、それぞれの席に諸仏から鬼神衆まで、施食の対象となる存在を描いた掛け軸、所謂「水陸画」を掛ける。これらを招請し、食を施した後に再び送り返すというのが、内壇で行われる儀式の大略であり、水陸会の儀軌はいずれも内壇の儀式次第を記すものである)22(。水陸会の起源について記す最古の記録は熙寧四年(一〇七一)に東川楊鍔