ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
227/230

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている227ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL(2)225た功徳の対照、などを通して考察したい。一、宋代における大型千手観音像に対する関心の高まり唐、宋代に作られた千手観音像の現存作例は、甘粛省の敦煌)7(、そして四川地域に集中する)8(。特に四川は千手観音信仰がきわめてさかんであったことが文献からも伺え、先行研究でも早くから注目されてきた)9(。同地の作例はいずれも、崖面を彫り窪めた龕の内部に像を彫出する摩崖造像のかたちをとる。その多くは、龕の中心に千手観音の坐像をひときわ大きくあらわし、観音の方向へ飛来する雲の上や、観音左右の基壇上、並びに龕床上などに、多い時には百体以上の像が集う群像形式となっている。像の形式や諸尊の構成は時代によって変遷するが、中でも際立つ特徴は、唐末以降になると、高さ六?八メートルといった大きな千手観音像をあらわす作例が見られるようになる点である。こうした大型の千手観音が、長江の支流沱江が市内を貫く、四川省東南部の内江市に四件現存している。これらの像、西岩摩崖造像第四五号龕、東林寺摩崖造像第十一号龕、聖水寺像、翔龍山摩崖造像は晩唐から宋にかけて作られたものである)10(。これらの像については先に挙げた濱田瑞美氏による卓見がある。氏はまず、四作例が四川の中でも飛び抜けて大きいこと、そしていずれの例においても龕の正面を建築物で覆い、像の前に空間を設けることを指摘する。さらに、唐から宋の間に造られた四川の千手観音像においては、観音の四十大手の中でも、観音が自ら坐す台座の左右に垂らす甘露手と宝雨手をことさらに強調するかのような表現が採られることに注目する。千手観音の四十大手のそれぞれには、この観音が叶えるというさまざまな功徳を象徴する持物や印相をあらわすが、甘露手と宝雨手に限っては、功徳の恩恵を受ける対象を直接的または間接的にあらわすのである。すなわち、甘露手と宝雨手の下には多くの場合、観音が施す甘露や宝雨を跪いて受ける餓鬼と貧人をあらわしており)11(、また東林寺像、聖水寺像に限れば、観音の台座左右から湧き出て、礼拝者に施される泉の水が、この両手から流れ出るかのような表現を採るというのである。そして氏は、千手観音の甘露手と宝雨手が実叉難陀訳『仏説救面然餓鬼陀羅尼神呪経』(以下『面然経』)や不空訳『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』(以下『焔口経』)に深く関わるものであり、施食なども含む、一切の有情に対する救済行為を造形化するものであると考察する。さらに、こうした救済能力をきわめて具体的なかたちであらわす千手観音像の大型化が、唐宋時代に千手観音像が大規模な法会の本尊として機能するようになったことに対応しており、そうした法会の中に、水陸会が含まれていた可能性を指摘するのである)12(。広義においては施餓鬼会の一種であるとされる水陸会が、餓鬼へ食を施すことの功徳を説く『面然経』や『焔口経』から派生したとの見方は、先行研究においても半ば定説となっている)13(。この点に鑑みても濱田氏の説はきわめて説得力に富む。ところで、濱田氏を含む先行研究でも指摘のあるように、唐、宋代の中国で大型の千手観音像が造られていたことについては文献にも記録が残る)14(。例えば明、曹学?撰『蜀中名勝記』巻一五には四川、富順県の中崖山に「唐咸通中(八六〇?八七四)、依崖刊大悲仏像。宋初僧自悟、架屋三百楹。天聖丁丑(天禧丁巳、一〇一七年の誤りか)15()、賜名普覚院」とあり、内江の諸像と同様、ここでも晩唐期に崖面に千手観音の像が彫られ、宋初に至ってこれを覆うように高大な建築物が建てられたことが確認できる。また、『宋高僧伝』巻二六「鎮州大悲寺自覚伝」によれば、鎮州(現河北省正定県)の大悲寺で大暦四年(七六九)に四十九尺の銅製千手観音像が造られたという。同伝によれば、この像は後周の顕徳(九五四?九五九)の初めに鋳銭のために破壊されたが、宋の太祖(九六〇?九七六)がこれをもとの形に復した)16(。このように、由緒自体は唐代に遡るとされる千手観音の巨像が、宋に至ってあるいは像前に屋を架ける、あるいは像自体を修造する、といったかたちで整えられていることは興味深い。というのも、先に挙げた内江東林寺摩崖造像第十一号龕の像についてもまた、南宋の紹興十一年(一一四一)に、像が彫られた崖の傍らに「高閣」を設けたことが知られているのである)17(。しかしこうした一連の記録の中でも特に目を引くのは、唐、宋代に勅額を賜っている寺院において、やはり同じ頃に千手観音の巨像を造る例が多々見