ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
水陸会における千手観音の役割に関する一考察(1)226はじめにその功徳の確かさを千の眼と千の手というかたちによって強力に印象づける千手観音は、現在も東アジアの各地であつく拝まれている。万能の陀羅尼「大悲呪」の力によって衆生を救済するというこの観音は、七世紀に経典と像がインドから中国へもたらされ、開元、天宝(七一三?七五五)以降、信仰は中国各地へと急速に広まった)1(。八世紀以降も千手観音は、大悲呪の圧倒的な人気を基盤に人々の信仰を集め続け、また変化観音の代表格として、宗派の別を問わず礼拝されてきた。その中、千手観音像の前では、各時代の在俗信者の要望に応え、それ故に幅広い教団・宗派にまたがって実践されるようなさまざまな儀式がおこなわれ、像のありように影響を与えてきたと考えられる。このことと関連して、近年、いくつかの興味深い論考が提示されている。例えば井手誠之輔氏は、岐阜県の永保寺や、台湾国立故宮博物院に残る千手観音画像が、「迎請」といった南宋の皇帝主催の国家儀礼と関係する可能性を指摘する)2(。また、濱田瑞美氏は、敦煌の莫高窟や敦煌請来画の中に見られる、唐末から五代(九世紀末?十世紀)の作例が「諸尊を招請して大悲心陀羅尼を唱える法会に用いられた」可能性を指摘する)3(。氏はこの他にも、四川省東南部の内江市にある、宋代初めまでに造られた千手観音の巨像が、大悲懺法や水陸会など、大勢の信者が集う法会の「本尊」として機能した可能性について述べている)4(。これらの儀式の中でも水陸会は、唐末頃から民間で絶大な人気を誇り、宋以降には皇室も度々主催した、きわめて大規模な法会である。大勢の信者から多額の布施が集まる水陸会は現代でも寺院にとって欠かせない収入源となっているが)5(、既に宋代頃からこの傾向があったことが文献史料から伺える。たとえば、『仏祖統記』巻三三によれば、南宋の皇帝孝宗の宰相であった史浩は、田百畝を施捨して、四明(現在の浙江省寧波市)の月波山に四時水陸を設けたといい、また月波山近隣の尊教寺では、「同族三千余人」が施財し、田を寄付して水陸会を行っていたという)6(。このように寺院にとって魅力的な収入源であった水陸会の本尊として機能し得たとあれば、それは像を造る上でも大きな動機となったことであろう。中国の寺院では現在も主要な堂宇に千手観音の巨像をまつる例が多いが、水陸会のような大型法会の本尊たり得たことは、或いは寺々における千手観音像の設置が一般化する一つの発端となったかもしれない。したがって濱田氏の指摘は、宋代以降の中国における千手観音の信仰と造形を考える上でもきわめて示唆的である。しかしそもそも、道場の壁にかけめぐらせる「水陸画」が主要な役割を果たすとされる水陸会においては、水陸画の他にいかなる像を用いたのであろうか。そして、儀式において千手観音像を積極的に用いる理由はあったのだろうか。本稿では、文献上の記録、実作例ともに宋代以降に多くの例が見られる巨大な千手観音像が、水陸会の「本尊」として機能し得たかという点について、水陸会儀軌の内容や、水陸会で用いられた水陸画以外の像についての同時代記録の検討、並びに水陸会に期待された功徳と千手観音に期待され水陸会における千手観音の役割に関する一考察羅翠恂WASEDA RILAS JOURNAL NO. 1 (2013. 10)Abstract