ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

キリスト伝サイクルの変容とスヴェティ・ニコラ聖堂の装飾プログラム図5れる。こうした典礼の実践を通じて養われたビザンティン人の想像力は、やがて12世紀までにネレヅィの「トレノス」(1164年、図5)やエレウサ型聖母子像26といった受難と密接に関わる図像やその人間的な表現へと結実していく。典礼に変化が見られた11~12世紀は文化的に成熟し、ビザンティン人が古典への関心を高めた時期でもある。知識人は古典に親しむだけでなく、古典的素養を活かして著作活動も行った27。典礼に養われた受難伝への想像力と古典趣味との融合は『クリストス・パスコン』に見られる。同書はナヅイアンゾスのグリゴリオスの作品として普及したが、11世紀から12世紀に成立し、作者不詳とされる。本書は「キリストの死」「墓所のキリスト」「キリストの復活」の三部から構成され、主人公のマリアが悲劇詩人エウリピディスの表現を借りつつ、先のゲオルギオスの作品以上に感情を露にして自らの思うところを語る。ここではキリストの死の場面を引こう。生テオトコス神女:……彼[ペトロ]は苦悩に打ちのめされ、一人の罪人として神の助けを求めています……。ああ、息子よ、ああ、愛する友よ、ああ、神なる御言よ。彼を赦してやりなさい。我が子や、人はとかく間違えるのです……。キリスト:乙女なる母よ、さあ、勇気を出してお行きなさい。お望み通り、ペトロの過ちは忘れましょう。私はいつもあなたの信仰と良心を考えてお言葉に従ってきました……。その涙は私から多くの恩寵を得て、罪の痕など全て消し去ります。お願いします、誰も憎まないでください。不当にも私を磔にした人々さえ。生神女:ああ、あなたの心はいつも愛情に溢れています。拷問にもかかわらず、あなたは人間を憎みも、磔にした人々に怒りもしません……。キリスト:……あなたが私に願い出たものの内、叶えられたものもあれば、私が覚えているものもあります。この言葉を言い残します。生神女:ことは成就したようです。ああ、何と不幸なのでしょう……。あなたは何とひどい言葉を言ったのですか。愛しく穏やかなあなたが……。そう、渇きよ。あなたにあんな大声を出させたのは。コロス:どうして嘆いてらっしゃるのですか……。あなたの口からお聞かせ願えませんか……。あなたの目や顔はなぜ表情を全くなくしたのですか28。S・スティッカは感情表現の強調と真に迫った対話表現が聖史劇上演の流行を示唆すると主張するものの29、『パスコン』上演の記録はない。それゆえ、同書は上演用の戯曲ではなく、古典を愛好するサークルのための文学的習作と考えるG・ラ=ピアナの見解30が支持されている。上演されたかはともかく、『パスコン』が13世紀中葉から16世紀中葉にかけて25写本に書写されている31。『パスコン』の普及にはナヅィアンゾスのグリゴリオスの名も少なからず寄与したのだろうが、それにもましてラ=ピアナの指摘は上引の講話以上に感傷的な受難伝が教会や典礼の文脈から離れた悲劇、つまり読み物として広く受容されていた可能性をも示唆する点で興味深い。このように評しては語弊があるかもしれないが、『パスコン』は12世紀のビザンティン世界では、受難伝が人々に親しみをもって受け入れられるようになったこと、すなわち受難伝の大衆化・通俗化の一端を示しているとも言えるのではなかろうか。この受難伝の大衆化や通俗化を裏付けるのが、1931年、A・フォークトが13世紀にバインディングされたVat. Palatinus gr. 367, fols. 34-39において発見した『受難の神秘劇』である32。内容は聖史劇の脚本であり、俳優のためのキューと思しき台詞の冒頭部分とともに舞台における俳優の配置や演技に関する指示が平易な文体で仔細に記されている。受難劇本編の始まりの部分を見よう。始まり。キリストと弟子たちをラザロの墓の49