ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL事実をふまえると?、画家の言葉を安易に首肯することは難しくなる。本稿は「異国の地で色彩表現に目覚めた画家」という逸話、具体的には「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」の言葉がどのようにして逸話を象徴する言葉に至ったかに焦点を当てて考察する。はじめにクレーが残した日記の概要について記しておく。クレーが18歳の頃(1898年)につけ始めた日記は、それ以前を振り返る「幼年時代の回想」で始まり1918年まで続けられた。日記は四冊あり、幼年時代から1901年の夏までを記した一冊目、1901年の10月から1902年5月までのイタリア旅行を中心とした二冊目、チュニジア旅行を含む1902年から1916年1月までの三冊目、そして1918年の途中で終わっている四冊目、となっている。画家の死後、1957年に出版された日記の前書きでクレーの息子フェリックスは次のように述べている。この日記は、もともと人に見せるためではなく、クレー自身の心を整理するために書き記されたものです。私の父は、生存中には誰にも自分の心をひらいてみせませんでした。私もまた例外ではありませんでした?。フェリックスの発言そのまま、日記はクレーの私的な文章として疑われることなく受け取られ、人々の好奇心を捉えた。しかしながら、1979年クリスティアン・ゲールハールが「個人的日記か、自叙伝か」と題した重要な論文を発表し、画家の私的な日記という見方は大きく修正されることになる?。ゲールハールによると、クレーは実際に記した日記を元にしながら、後から加筆、削除、脚注の追加といった編集の手を加え、三冊目までの日記を清書し直していた。元となった日記は見つかっておらず、そのため日記内の年代と実際に記入した年代には齟齬が生じていた。ゲールハールは日記に使用された筆記用具や筆跡、日記中の脚注を丹念に調べることで三冊の日記がいつ頃編集されたかを明らかにし、クレーが個人的日記を自叙伝として書き換え、いずれ出版することを計画していたと結論づけている?。編集の手が入った日記内の文章は大きく分けて以下の二つに分類される。1・原文がそのまま反映された文。2・原文にはなく、後から加筆された文。チュニジア旅行は三冊目の日記に含まれ、ゲールハールを始めとする研究者は色彩に関する文章の多くが1921年頃に加筆されたと指摘している?。なぜ画家は旅行から7年経った後に加筆をほどこしたのであろうか。1逸話が生まれた背景1920年の5月から6月にかけて、ミュンヘンのゴルツ画廊でクレーの生涯で初の回顧展が開催され、それに続いてクレーに関するモノグラフが二冊出版された。一冊目は美術史家レオポルド・ツァーンによる『パウル・クレー──生涯、作品、精神』(1920年)。二冊目は美術評論家ヴィルヘルム・ハウゼンシュタインが1918年頃から構想していた『カイルアン、あるいは画家クレーと今日の美術の物語』(1921年)である。1920年代初め、広く社会に知られる存在となったクレーはこの状況を「美術界での最初の頂点」と述べている?。雑誌『デア・アララート』が回顧展のカタログとして刊行した「クレー特集」には、「画家自身の資料に基づいた?」伝記と出品目録、そして「彼岸で私を捕まえることはできない」という墓碑にもなった文章がクレーの手書きで記されている?。文章の最後には括弧付きで「日記からの引用」と補足されているが、現在ではモノグラフのためにクレーが作り出した文章と指摘されている?。伝記はクレーから提供された日記の抜粋を元にしながら、雑誌の編集者であったレオポルド・ツァーンがまとめたものである。画家の幼少時代から始まり、ミュンヘンでの美術学校時代やイタリア旅行、ファン・ゴッホやセザンヌとの出会いといった20代の出来事から、青騎士への参加、パリ旅行、チュニジア旅行といった30代の出来事が中心に記述されている。伝記の中でチュニジア旅行は、それまで経験した前衛美術の表現をクレーが自身のものにする契機として次のように記されている。新しい色彩表現のためには適切な自然の対象が必要であり、クレーはそれを南にあるオリエントの土地で見つけようとした。1914年、マッケと共にしたチュニジアへの旅行はクレー固有の色彩の基盤となっており、旅行中に描かれた56