ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
利用されるクレーの逸話水彩画がそれを示している?。つけることが重要だ?。回顧展には1909年から1920年にかけて制作された212点の水彩画が出品され、1914年の作品はほとんどチュニジアで描かれている?。制作年別の出品数を見てみると、1909年から1913年までの作品は全て合わせて17点しか出品されていないが、1914年の作品35点、1915年の作品24点と作品数が増加しており、チュニジア旅行の影響を示している。またジェニー・アンガーによれば、チュニジアで描いた水彩画は1914年秋のミュンヘン新分離派展に出品して以来、この回顧展まで出品されたことはなかった?。今まで知られていなかった1914年の水彩画を展示することで、チュニジア旅行が色彩表現の端緒であったことを回顧展は示そうとしたのだろう。チュニジア旅行後の伝記は、歩兵隊、運送隊、航空学校の書記といった戦争期間(1916-1918)の任務が記され、回顧展が開かれたクレーの成功にふれながら締めくくられている?。回顧展と連動して1920年の年末、雑誌『アララート』の編集者ツァーンによる『パウル・クレー──生涯、作品、精神』が出版された。冒頭には『荘子』の「大宗師篇」の一節が引用されている?。「道(Tau)」を学び、悟りを開くと「生と死がもはや存在しない境地に達する」といった内容が対話形式で記され、次頁には回顧展のカタログで掲載されたクレーの手書き文章が再掲されている。「私は未だ生まれぬものと同じく、好んで死者たちのところに住んでいる」といった表現から、道教の悟りと同じ境地にクレーが達していることが読者に印象づけられる。ツァーンのモノグラフはこの冒頭に象徴されるように、クレーの世界観と道教思想の関連付けを目的としていた。1章の「人生と発展」では1920年までの経歴が記され、回顧展のカタログと同じようにチュニジア旅行はクレーの色彩の端緒として捉えられている。1914年の箇所ではクレーの言葉が次のように引用されている。他の画家との直接の交流はたしかにある認識を生みはしたが、作品にはいたらなかった。生き生きした刺激によって内に眠っている才能を掘り起こすため、いまや自然の中で研究対象を見この引用の後、「クレーはこの目的をチュニジア旅行で実現させた」とツァーンは記し、回顧展に展示されていた水彩画《チュニスのスケッチ》《赤と白のドーム》《カイルアンの公園》を具体例として挙げている。続けてツァーンは「これらの水彩画と同じ表現をチュニジア旅行後に制作された作品も示している」と述べ、チュニジアで開花したクレー独自の色彩を「東方的神秘(Ostlische Mystik)」という言葉で形容している?。2章以降では、この「東方的神秘」について再び道教思想を引き合いに出しながら議論が進められているが?、1章で強調されたチュニジア旅行は、2章、3章ではほとんど言及されなくなる。おそらくツァーンにとってチュニジア旅行は、クレー独自の色彩表現の端緒であると同時に、道教思想と関連付けるための具体的根拠でもあったのだろう。ツァーンのモノグラフに続き、1921年初めに『カイルアン、あるいは画家クレーと今日の美術の物語』が出版される。著者のハウゼンシュタインは『現代の造形美術』(1914年)や『絵画における表現主義』(1918年)の中で表現主義について積極的に論じ、1920年の時点で新進美術評論家の一人と見なされていた。1914年にこの評論家が第1回ミュンヘン新分離派展を組織した際、クレーも設立メンバーとして参加したことから、二人は互いに交流を深めていく。1918年の半ば頃にハウゼンシュタインは『カイルアン』の構想をクレーに話しており、1919年にクレーは執筆の材料として日記の抜粋をハウゼンシュタインに送っている?。『カイルアン』はツァーンの著作の翌年、1921年にクルト・ヴォルフ社から刊行されたが、前年のクリスマスには店頭に並んでいた。カイルアンとはチュニジア旅行の最後にクレーが訪れた都市の名前であり、イスラム世界においてメッカ、マディーナに次ぐ聖都である。134頁16章から成る『カイルアン』の中でもチュニジア旅行はタイトルからわかるように重要な経験として語られている。しかしハウゼンシュタインはツァーンのようにチュニジア旅行と色彩を関連付けるのではなく、クレーの出自とチュニジア旅行を結びつけようとした。「この男はここの生まれではない21」と述べるハウゼンシュタインは、クレーの出自を記すに57