ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNAL際して、母方が南フランスを通ってやってきたオリエントの血筋であることをまず強調した22。そしてチュニジア旅行を「イスラム教徒が天国に通じる門の一つと呼んでいたカイルアン」への巡礼の旅であったと解釈したのである23。一方、回顧展やツァーンのモノグラフが示したチュニジア旅行とクレーの色彩の関係について、ハウゼンシュタインは次のように記している。美術史家の立場からすれば、[クレーがチュニジア旅行で]色彩に対する感覚を掴んだ、ということぐらいしか事実として確認することはできない。ドラクロアのモロッコ旅行でさえ、光や色彩の成果以上のことは確認できなかった。しかし、そのような成果は二次的なものでしかない。重要なことは、西洋の画家がカイルアンにおいて彼岸の世界とそっと接触したということである24。([ ]内は訳者による補足)美術史家とはハウゼンシュタインのことであり、「色彩に対する感覚を掴んだ(Befestigung des Sinnsfur die Farbe)」という言葉は、おそらくクレーが渡した日記の抜粋の一文「[チュニジア旅行で]色彩が確かなものとなる(Befestigung der Farbe) 25」から取られている。引用文の内容は今ひとつ判然としないが、チュニジア旅行の成果である色彩を「二次的」と形容したことから、ハウゼンシュタインが両者の関連を低く評価していることがわかる。『カイルアン』をクレーに関する最初のモノグラフとして出版するつもりだったハウゼンシュタインは、ツァーンの『パウル・クレー──生涯、作品、精神』が先に出版されたことに大きな不満を抱いていた。1920年の5月にツァーンのモノグラフが自分のものより先に出版されることを知ったハウゼンシュタインはクレーに抗議の手紙を書いている26。ツァーンやゴルツは私(ハウゼンシュタイン)がクレーについて最初に書くのを防ぐため、クレーと共謀してそれより先にツァーンのモノグラフを出版したのではないか、というのが手紙の内容である。クレーは返答の中でツァーンのモノグラフが出版されるに至った経緯を詳細に記し、そのような陰謀はなかったと説明しているが27、結局ツァーンのモノグラフが先に出版されることになった。おそらくハウゼンシュタインは、ツァーンのモノグラフを意識し、「巡礼としてのチュニジア旅行」という自身の解釈を強調するため、色彩の成果を「二次的なもの」と記したのだろう。このように1920年代初めに出版された二冊のモノグラフは、いずれもチュニジア旅行に焦点を当てながらクレーについて記述した。ツァーンのモノグラフはクレーの実感に近かったが、血筋と結びつけたハウゼンシュタインの解釈は、クレーにいささか戸惑いを与えたのだろう。ハウゼンシュタインから手紙で『カイルアン』の感想を問われた際に、クレーは明確な答えを出さずに返信しており、それがハウゼンシュタインと交わした最後のやり取りになっている28。こうした出来事に並行して、クレーは1920年10月に発行されたドイツ工作連盟の機関誌『ダス・ヴェルク』に「科学としての色彩」という短いエッセイを寄稿している29。この中でクレーは1919年にドイツ工作連盟の大会で発表されたヴィルヘルム・オストヴァルトの色彩論に対する自身の見解を示している。直観や感情を否定したオストヴァルトの色彩論は同時代の画家達から徹底的に反対され、クレーもエッセイの中で「多くの芸術家が、科学としての色彩論に反対することは理解できる」とこれを批判している。前田富士男によれば、オストヴァルトと芸術家の対立は、1914年に工作連盟の総会で生産品の「標準化」を推進したヘルマン・ムテージウスと個人主義を主張したアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの対立の再現であった。芸術・工業・手工業の諸分野をいかにして統合するかは、工業文明の時代において広く共有された課題であり、オストヴァルトにとっても色彩論は「科学と文化の境界と接続を追求する実践的な場」であったと前田は述べている30。こうした情況の中で、クレーは1921年に「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」の一文を日記内に加筆することになる。旅の終わりに訪れたカイルアンの箇所に付け足されたこの言葉からは、回顧展やツァーンのモノグラフ、オストヴァルトへの批判を通して、色彩画家としての自覚を強めていったクレーの自負心が読み取れる。同時に「色彩の成果は二次的である」と見なしたハウゼンシュタインに対するクレーの明確な回答でもあったのだろう。日記内での加筆は一見すると私的な作業に思われ58