ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

利用されるクレーの逸話るが、ゲールハールが指摘したようにクレーは日記の出版を念頭に置きながら加筆していた31。すでにカンディンスキーは1913年に自身の前半生を『カンディンスキー・アルバム』の中で回想しており、1920年代初め、ドイツを代表する画家になったクレーが日記の出版を念頭においても不思議ではない。事実、1927年の『一般造形芸術家辞典』において、日記は「未刊行著作」としてクレーの項目に記されている32。しかしながらクレー存命中に日記は出版されなかった。加えて1921年にクレーがバウハウスの教授に就任して以降、チュニジア旅行の逸話はほとんど言及されなくなる33。結局、色彩画家の自負を述べた「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」の言葉は、クレーの死後に出版されたモノグラフに引用されるまで、世に出ることはなかったのである。2逸話の完成大戦後のドイツではナチスによって退廃芸術家の烙印を押されたクレー再評価の気運が高まっていた34。そんな中、クレーの没後10周年の1950年に『パウル・クレー──造形思考への道』は出版された35。著者のハフトマンは1954年に印象派から戦後の現代美術までを包括的にまとめた『20世紀の絵画』を出版し、1955年に開催された最初のドクメンタのコンセプトを任された美術史家でもある。モノグラフの副題にある「造形思考」とは、バウハウス期にクレーが組み立てた造形理論のことを意味しており、ハフトマンは序論で「クレー芸術の基本原則を明らかにすることが本書の目的である」と述べている36。モノグラフの記述スタイルは前半部と後半部で大きく異なる。前半部は「青春、そして絵画への第一歩」「修行時代」「ヨーロッパの前衛集団」「色彩の贈り物」といった章タイトルから明らかなように、伝記的な出来事とクレーの影響関係を中心に論じているが、1920年代以降は「バウハウスの教師パウル・クレー」「教育的スケッチブック37」「自然研究への道38」「絵の誕生」「絵の存在」「形態の現象」と題し、造形理論の解明に努めている。「色彩の贈り物」の章におけるハフトマンの記述は多くの点でツァーンと共通している。1914年以前に受けたドローネーや青騎士グループでの刺激を実現するため、クレーは「強烈な視覚体験」を必要としチュニジア旅行によって彼の色彩が開花する、という展開である39。ハフトマンはクレーの神秘的体験を代弁するかのように、チュニジア旅行をより劇的なものとして次のように語る。旅行はクレーに色彩の体験を与えることになるが、それが自然から彼のものになったことは自明であった。クレーをセザンヌからドローネーへと導いた色彩の本質への洞察が、突然にいま視覚体験として彼に差し出されたのである40。このような前置きの後、クレーの日記を引用しながらチュニジア旅行の行程が記述され、最終地点であるカイルアンにおいて問題の一文を含む「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」が初めて公のテキストに引用される41。1920年代のモノグラフとは異なり、ハフトマンはクレーが残した日記を参照しながら執筆しており42、チュニジア旅行はクレーの私的告白を伴う神秘的な体験として語り直されたのである。しかしハフトマンの文章では、カイルアンを訪れた後、イタリアを経由してベルンに帰るまで記述されたため、問題の一文は特権的フレーズには至っていない。ハフトマンのモノグラフに続いて、1952年にチューリヒの美術史家カローラ・ギーディオン=ヴェルカーの『パウル・クレー』がアメリカで刊行される。ドイツ語版は1954年に出版され、1961年に「ロロロ・モノグラフ叢書」に加えられているが、ここでは1952年版を取り上げる。ギーディオン=ヴェルカーは「色彩」の章の冒頭で、「戦争終結後の1919年に、クレーは南国の世界を開花させた43」と述べ、その萌芽が1914年のチュニジア旅行にあるとして次のように記している。カイルアン、4月16日、1914年、クレーは日記に書いている。「色彩が私を捉える。それを追う必要はない。私にはわかる。それが永遠に私を捉えつづけるだろうと。これこそが至福の時である。色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ。」北アフリカの光と風景から得た色彩の啓示は、いまや[戦争後]成熟した造形的現実となり、彼の言葉通り、色彩画家としての第一歩を示している44。([ ]内は訳者による補足)59