ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALハフトマンとは異なり、ギーディオン=ヴェルカーがこの章で引用した日記の文章はこの箇所のみであり、チュニジア旅行を象徴する発言として用いられていることがわかる。1954年にはヴィル・グローマンによる大著『パウル・クレー』が刊行される45。クレー存命中に最も中心的な役割を果たした評論家によるこのモノグラフは、486点の図版、作品の時代区分およびカテゴリー分類、詳細な文献表、展覧会リストを含み、長い間クレー研究の最重要文献とみなされてきた46。「人生」「作品」「教え」の3部から成る本書の中で、チュニジア旅行の言葉は伝記部分にあたる「人生」の章に見つけることができる47。グローマンはチュニジア旅行を記すに際して、訪れた土地毎にクレーの日記を引用し、カイルアンの箇所で引用した「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」でもってチュニジア旅行の記述を終わらせている。ハフトマンと異なりグローマンはカイルアン以後の行程を省略しているため、チュニジア旅行の成果は末尾の引用文に集約されることになる。このように戦後初期のモノグラフ内で引用されたカイルアンの言葉は、1960年代にも繰り返し引用されることになる。1965年、ルツェルンの雑誌『芸術通信』に掲載された「パウル・クレーのチュニジアの水彩画」では論文冒頭で引用され48、1969年の『パウル・クレー──宇宙への眼差しとしての絵画』では引用の前に「何度も繰り返してとりあげられる日記の次の箇所」と前置きがあり、すでにクレーの代表的フレーズとして用いられていたことがわかる49。そして「異国の地チュニジアで色彩に目覚めた」という逸話は1982年に開かれた展覧会『チュニスへの旅──クレー、マッケ、モワイエ』において決定的なものになる。この展覧会は旅行中に描かれた水彩画と素描を中心に、総数224点の作品(クレーが49点、マッケが137点、モワイエが38点)が展示された50。マッケの作品数が圧倒的に多いが、展覧会カタログで最も多くの頁を割かれているのはクレーである。カタログには、パウル・クレー「チュニジアへの研究旅行」という項目が設けられ、旅行時に書かれた(実際には後から加筆した部分もあるが)日記内の文章が時系列に沿って全て掲載されている51。日記の文章を記すだけでなく、旅行中にマッケが撮影した写真や20世紀初頭に撮影されたチュニジアの写真も並置され、さらに旅行中に一行が訪れた場所を再び訪れ、写真による旅行の再構成も試みられている。時系列に沿って日記が引用され、カイルアンの箇所では「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」の文章が右ページ上部に記載されている。次頁には見開きで1枚の写真が掲載されているが、それは日記内の文章を撮影したものであり、開かれているのはカイルアンの箇所である52。写真の中でもカイルアンの言葉は前頁と同じ右ページ上部に見つけることができ、画家の発言に真実味を帯びさせるページ構成となっている。1982年の展覧会は写真を活用することで、これまで文章の中で語られることが多く、具体的イメージを持たなかったチュニジア旅行に現実的な輪郭を与えることになった。そして1950年にハフトマンが初めて引用した画家の言葉は、多くの著作で引用され、実際に記された日記の写真が掲載されるまでに至ったのである。おわりに本稿では1920年代初めにチュニジア旅行の逸話が生まれた情況について考察し、クレーの死後に逸話が広まった経緯について「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」という言葉を中心に検討した。この言葉は多くのモノグラフの中で引用され、次第にチュニジア旅行を象徴する言葉になったといえる。ところで、チュニジア旅行が1920年に逸話として語られた背景には、クレーをオリエントの画家と見なしたい批評家の心情が要因の一つとして挙げられるが、戦後ドイツの中でチュニジア旅行がたびたび言及された要因は何だったのであろうか。戦後ドイツが抱えていた最も大きな問題は、ナチスが残した「退廃芸術展」という負の遺産を解消することであった。1955年に開催された国際現代美術展ドクメンタはドイツ美術が国際的なアートシーンに復帰することを目的としており、その構想を任されたのは『パウル・クレー──造形思考への道』の著者ハフトマンである53。構想のもとになった『20世紀の絵画』の序論においてハフトマンは「20世紀美術はすべての国境を超えて、密接かつ豊かな対話である」「ヨーロッパの国々をひとつと見なすことが著者にとって重要である」と述べ、20世紀前半の美術運動を「ドイツ美術」や「フランス美術」60