ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

利用されるクレーの逸話といった枠組みではなく、汎ヨーロッパ主義的な観点から捉え直そうとした54。ハフトマンは「ドイツ美術」というカテゴリーをなくすことで、ドイツ精神が生み出した「退廃芸術展」という自国の問題を、ヨーロッパの文化を襲ったナチスの脅威という構図に置き換えたのであるが、ハンス・ベルティングの言葉を借りれば「『西洋』に逃げた」といえる55。1950年、ハフトマンは『パウル・クレー──造形思考への道』の序論でクレーについて「若きヨーロッパ絵画の活気ある生活の中心に今日こそ座を占めるべき画家」と述べ、最終章では「クレーはドイツ人であり、ヨーロッパ人であり、同時に他のすべての人種であった」と述べている56。またクリスティーネ・ホッペンガルトが指摘するように、『20世紀の絵画』の中でクレーは、ヨーロッパを代表する画家として特別な地位が与えられている57。ドイツで活躍したクレーをヨーロッパの画家と見なすことは、ドイツ美術をヨーロッパ美術の枠組みで語ることと同じである。戦後ドイツの美術界を主導したハフトマンにとって、非西欧でクレーが色彩に目覚めることは、画家をドイツ固有の歴史から切り離し、ヨーロッパの画家と見なす上で必要な物語であったのだろう。もちろん逸話が広まった要因に政治的イデオロギーを安易に当てはめるのは危険であり、多面的な考察と慎重な議論を必要とする。クレーに限らず他の画家がどのように語られたのか、また戦後1956年にチュニジアがフランスから独立した時代背景、ドイツ語圏以外におけるチュニジア旅行の言説も合わせて考えなければならない。しかしクレーを語る者が、いずれも「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」を引用しながらチュニジア旅行を述べた背景には、クレーをヨーロッパの画家と見なしたい戦後ドイツ特有の心情がいくらかあったのではないだろうか。本文中の外国語文献からの引用は筆者による訳出である。訳書がある場合は該当頁を併記した。註? Paul Klee, Tagebucher 1898-1918, Textkritische Neuedition,der Paul-Klee-Stiftung (Hrsg.), Kunstmuseum Bern,Stuttgart, 1988, no. 926o, S. 350.(パウル・クレー『新版クレーの日記』ヴォルフガング・ケルステン編、高橋文子訳、みすず書房、2009年、日記番号926o、321頁)?主要な文献における「色彩と私はひとつになった。私は画家なのだ」の引用箇所。Werner Haftmann, Paul Klee──Wege bildnerischen Denkens, Munchen, 1950, S. 51(ヴェルナー・ハフトマン『パウル・クレー──造形思考への道』西田秀穂・元木幸一訳、美術出版社、1982年、83頁);Carola Giedion-Welcker, Paul Klee, New York,1952, p. 41; Will Grohmann, Paul Klee, Stuttgart, 1954, S.54; Jean-Christophe Ammann,“Die Tunesien-Aquarell PaulKlees von 1914,”Kunst-Nachrichten, Jg. 2, Nr. 3 (1965);Max Huggler, Paul Klee──Die Malerei als Blick in denKosmos, Frauenfeld und Stuttgart, 1969, S. 40; ChristianGeelhaar, Paul Klee, Leben und Werk, Koln, 1974, S. 31;チュニジア旅行を取り上げた展覧会については下記文献を参照。Die Tunisreise──Klee Macke Moilliet, Ausst.Kat., Westfalisches Landesmuseum fur Kunst und Kulturgeschichte,Munster, 1982; Reisen in den Suden, Ausst. Kat.,Gustav-Lubcke-Museum, Leipzig, 1997;『パウル・クレー展──旅のシンフォニー』(展覧会カタログ)神奈川県立近代美術館ほか、2002年。? Christian Geelhaar,“Journal intime oder Autobiographie?,”in: Das fruhwerk 1883-1922, Ausst. Kat., Munchen, 1979, S.251; Wolfgang Kersten, Zerstorung, der Konstruktion zuliebe?,Marburg, 1987, S. 117-119; O. K. Werckmeister,“Kairuan: Wilhelm Hausensteins Buch uber Paul Klee,”in:Die Tunisreise──Klee Macke Moilliet, Ausst. Kat., WestfalischesLandesmuseum fur Kunst und Kulturgeschichte,Munster, 1982, S. 76-91.? Paul Klee, Tagebucher 1898-1918, Felix Klee (Hrsg.),Koln, 1957, S. 6.(パウル・クレー『クレーの日記』南原実訳、新潮社、1961年、450頁)? Geelhaar, op. cit., 1979.? Ibid., S. 258.?註?を参照。? Klee, op. cit., 1988, S. 528.(邦訳482頁)?“Paul Klee,”Der Ararat, Jg. 1, Nr. 2 (1920), S. 1.? Ibid., S. 20.? Christine Hopfengart, Klee, vom Sonderfall zum Publikumsliebling──Stationen seiner offentlichen Resonanz inDeutschland 1905-1960, Mainz, 1989, S. 39-41.? Der Ararat, 1920, S. 3.? Ibid., S. 21-25.回顧展の出品総数は362点。ジャンル別に見ると、水彩画212点、線描画79点、油彩画38点、版画27点、石膏像6点が展示された。?ジェニー・アンガー「パウル・クレー『他者』へのまなざし」長門佐季訳、『パウル・クレー展──旅のシンフォニー』(展覧会カタログ)神奈川県立近代美術館ほか、2002年、210頁。? Der Ararat, 1920, S. 3.? Leopold Zahn, Paul Klee. Leben, Werk, Geist, Potsdam,1920, S. 3.? Ibid., S. 13. 1章の中でクレーの言葉が引用されているのは、この箇所のみである。? Ibid., S. 14.? 2章冒頭には『老子』の言葉が引用されている。Ibid., S.16.? Werckmeister, op. cit., 1982, S. 79.21 Wilhelm Hausenstein, Kairuan oder Eine Geschichte vomMaler Klee und von der Kunst dieses Zeitalters, Munchen,61