ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALは地域における人々の生活または生業及び風土により形成された次のような景観である。(1)水田・畑地などの農耕に関する景観(2)茅野・牧野などの採草・放牧に関する景観(3)用材林・防災林などの森林の利用に関する景観(4)養殖いかだ・海苔ひびなどの漁撈に関する景観(5)ため池・水路・港などの水の利用に関する景観(6)鉱山・採石場・工場群などの採掘・製造に関する景観(7)道・広場などの流通・往来に関する景観(8)垣根・屋敷などの居住に関する景観2010年8月に至って、「田染荘小崎の農村景観」が重要文化的景観に選定され、ここにようやく、伝統的文化景観が再生の時を迎えたのである?。文化庁技官の服部英雄氏と大分県教育庁研究員の海老澤がこの地に立ってから既に30年の歳月が流れていたのであった。この「田染荘小崎の農村景観」の特徴は、鎌倉時代以降の開発の歴史がわかることである。鎌倉時代前期に遡ると、小崎一帯はまだ原野に近い状況であった。北に聳える西叡山の麓はなだらかな傾斜地となっていて、小崎川に向かって尾根が張り出し、その先端がまさに「尾崎」(近世以降「小崎」)という中世の地名によって象徴されるところであった。この尾崎に至る緩やかな尾根は、後には「野地台」と呼ばれ、徐々に畑地となっていくが、中世までは野生動物の格好のすみかであり、縄文時代から長く狩猟の場となっていた。この尾崎の地に最初に住み着いたのは「覚妙」と呼ばれる人物であった。仏門に帰依して法名を名乗っているが、小規模な水田開発を行うことが出来る名主と呼ぶべき農民であった。ただし、彼自身は「名主」の地位を保証されないまま生涯を送ったようである。1271年3月15日付の大宮司宇佐公氏下文によれば、覚妙は重安名を知行していたもので、覚妙が死去したとき、その子の能重に譲られたものであるこ田染荘小崎位置図富貴寺蕗川小崎川桂川選定範囲(92ha)田染小崎熊野磨崖仏〈メッシュは500m×500m〉『田染荘小崎文化的景観保存計画』(豊後高田市、2010年)序2頁72