ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
75/230

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている75ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

文化的景観の危機と再生田染小崎の中心地(2007年1月撮影、豊後高田市提供)とがわかる。この能重は、宇佐八幡宮の御馬所検校という役職に就いていた。宇佐八幡宮は九州の大社であり、広域に荘園があって年貢輸送や連絡に多くの馬が必要であった。また、祭礼の行列で果たす馬の役割も大きい。そのため、宇佐八幡宮は牧の管理も行っていたが、その一つは田染荘に存在した。能重は宇佐八幡宮において馬を管理する責任者の地位にあったが、おそらく八幡宮と田染荘を往復してその任を果たしていたのであろう。ところで、能重は重安名を父から継承したが、証拠文書として覚妙の譲状あるいは公験(所有を証明する文書)などを八幡宮に提出した事実は示されていない。ただ「当知行に任せて」とあるに過ぎない。鎌倉時代には幕府によって相続法が発達し、譲状の作成が広く行われるようになっていた。一方で20年を目安として「当知行」(事実上の管理)による権利の発生が認められており、相続法は譲状と当知行の二本の柱で運営されていた。宇佐八幡宮領田染荘の重安名にあっては覚妙から能重への代替わりにあたって「当知行」のみがその根拠として示されている。このことからすれば、覚妙は譲状や自らの所領目録を作成しなかったらしい。本人は紙に文字を書くという習慣を身につけていなかったのであろう。また、宇佐八幡宮の役職についていたことも示されていない。御馬所検校という地位に就いた能重が父親の覚妙が開発した土地を「重安名」としてまとめ、その領有を宇佐八幡宮に申請したのであった。覚妙の代から重安名の屋敷があったのは「尾崎」である。現在の小崎の中心地がまさにここに当たる。重要文化的景観に選定されたのは92haであり、13世紀から14世紀にかけての文書中に「飯塚屋敷」・「為延屋敷」・「かどやしき」・「みどおその」・「ミすミ畠」などの地名が存在し、これらがピンポイントで確認でき、今回の選定に当たってはそれぞれに標柱を立てることになった。以上が拠点形成の地であるが、次ぎに水田開発地を見よう。重安名は小崎川流域の水田として「おやま」の地にあった。愛宕池から流れ出る用水や烏帽子岳の北斜面の水を集める沢(元禄時代に作成された絵図に描かれている)は、「おやま川」と呼ばれており、これを水源とする水田に「おやま」の名が付けあれており、現在でも重安名「おやま」の地は73