ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL世界遺産バリ島ジャテルイの棚田(2004年8月撮影)により形成されたものであった。日本では17世紀以降、幕府(中央政府)・大名(有力な君主)・商人などによって〇〇郷用水などと呼ばれる大水路による水田開発が行われた。(7)技術的な問題として、バリでは896年に用水路のトンネル工事が行われたが、日本では池の暗渠水路が6世紀頃から行われていた。(6)バリでは、19世紀までに基本的な水田開発が終了し、その後スバックが新に組織されることはなく、20世紀のオランダ統治期においても大きな改変はなかったが、日本では20世紀に入ると国営・公営の耕地整理事業が進捗し、伝統的水田景観および自立的水利組織はほぼ失われた。このように、バリと日本では水田農耕を基盤としながら、国家レベルの開発と管理をめぐって非常に大きな相違がある。ただし、これはギアツが描き出したバリ島イメージに依拠したものである。ギアツは劇場国家の論理的一貫性を重視して、バリの支配者および有力者は水田開発とその管理には関心を示さず、専ら「模範的中央」(都市、宮廷、寺院)における演劇的儀礼に終始したとした。19世紀において自治の発達した村落と平等を原則とする水利組織がバリ島全体を覆っていたとするが、これは多かれ少なかれ王が水田灌漑に関わった他のアジアの水田農耕社会とも大きな相違を見せている。世界中でバリだけが特殊な国家形態をとっていた可能性が高く、魅力的な国家論であり、今後さらに様々な角度から検証する必要があろう。このようなムラの自立的な団体であるスバックが世界遺産になったことの意義は大きいと言えよう。バリ島では、1930年代にムラの演劇・舞踊・音楽などで欧米に知られるようになり、学者・芸術家・建築家・ジャーナリストを惹きつけて、オリエンタルな香りのリゾートとして注目を浴びるようになる。第二次世界大戦以降には、著名なホテルが多数進出してその価値を高めが、ハワイ・オアフ島のワイキキとは相違してムラと水田に溶け込む形で配置されている。今回の世界遺産選定はバリ島の人たちの1930年代から続く平和的な世界戦略の一成果であるとみることもできる。しかし、同時に観光開発による危機が忍び寄っていることも事実であり、今後も注意深く見守っていく必要がある。③フランス・アルザス地方の場合本稿では、東アジアの場合を主な考察対象としてきた。冒頭に述べたように、アジアにおいてムラそのものが研究および保全の対象となったのは、ヨーロッパにおける研究を輸入した結果であった。特に、フランス中世農村史の影響は大きく、ストラスブール大学で教鞭を執り、後にはパリ大学に移ったマルク・ブロックがもたらした学術的な波及を無視することは出来ない?。ここでは、フランス農村史の原点ともなったアルザス地方におけるムラの保全に関して若干の考察を試みたい。フランスの農村においては、現代においても中世的な景観をよくとどめている。集落の中心には教会があり、麦畑(近年トロモロコシ畑が増加しているが)とブドウ畑が周76