ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNALジア地域における最も喜ばしい達成」が破壊されてはならないと訴えたことがある。だが、どうやら彼の憂慮とは裏腹に、少なくともソウル-東京の間では「魂が行き来する道筋」(村上春樹)は塞がれてはいない。いま現在もソウルの大手書店には「ハルキコーナー」が必ずといっていいほど設けられているし、新作の翻訳権料は最高額の記録を更新中である。振り返ってみると、村上春樹がソウルや台北、香港、北京で読まれていたここ20年間、この地域に歴史認識や領土をめぐる葛藤や争いは絶えることがなかった。そういう意味で、いわゆる「国民感情」の壁の下を潜り抜けて、文化や歴史的背景の異なるアジア地域の人々の心と趣向を繋いだ村上春樹の文学は、この地域の未来へ向けて肯定的に寄与する大きな文化資産であるに違いない。こうしてみると、今回の村上の勇気ある発言は、共同体への眼差しが日本という一国を越えて、東アジアという広域にまで拡張したことを印象付けるに余りある。村上春樹はエッセイの冒頭に、こうした文章を書くようになったきっかけとして、領土をめぐる紛争が激化するなかで「中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接し」「ショックを感じ」たことをあげている。そのうえで、領土の問題で、20年間に渡り形成してきた「東アジア文化圏」の文化交流の道が閉ざされてはならないと訴えた。この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。以前の状況はそれほど劣悪だった。どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。これはまことに素晴らしい成果というべきだ。(『朝日新聞』2012年9月28日)ここでまず目を引くのは彼が中国や韓国を、日本をも含めて「アジア」あるいは「東アジア」という地域概念でグルーピングして語っていることである。もっとも、彼が文章のなかで使っている「東アジア」という概念は、必ずしも明確ではないものの、概ね韓国や台湾、香港、中国を取り囲む地域をさしているようだ。ところで、村上春樹が強調する「東アジア文化圏」なるものの実体をつかむために苦労する必要はなさそうだ。つまり、本文のなかに詳しく、そして明瞭に説明されているように、中国や韓国や台湾の経済成長に伴い、文化の等価的交換が可能になった東アジアの地域圏をひとつの文化単位として捉えているのである。ただし、「東アジア文化圏」を英語に換えれば「East Asian cultural sphere」で、これは一般的に中国や韓国、日本、台湾、ベトナムなどを含む「漢字文化圏」を意味するものとされている。だが、村上春樹のいう東アジア文化圏は、儒教や漢字文明の代わりに、市場経済や知的財産権をめぐるグローバルスタンダードの機能する「文化マーケット」として再定義された地域圏を指しており、注目を要している。エルサレム賞の受賞演説でイスラエルとパレスチナとの関係について言及しながら、「卵」の立場をもって「壁」(=「システム」)を批判したことのある村上春樹だが、彼が自国を巻き込んで激化する近隣諸国との領土紛争に直截に立ち向かって、危惧の念を表し、当事者たちの自制を訴えたことに新鮮なインパクトを覚えた人は少なくないだろう。政治家たちの扇動による民族主義の噴出を「安酒の二日酔い」と喩え、ヒトラー時代の記憶まで取り出し戒め184