ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNALできた。僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。村上春樹自らがいうように、彼が日本人やアメリカなど西洋人読者以外に、東アジアの読者と「出会った」のはアメリカの地においてであった。村上春樹が初めて会った東アジアの国々からの留学生たちは、どんな読者だったのか。彼らは、アメリカ人読者との間に横たわる溝や隔たりからくる緊張を味わったり、「意外なところ」を気にする必要もない、その分気楽で馴染みやすい他者であったはずだ。だが、上の村上春樹の発言からは、デタッチメントにばかり拘る彼らとは時間軸(時代)も、「興味」も共有できないという認識をも読み取れる。村上春樹と東アジアとの出会いの場に立ち入ったのは、時差の感覚であったかもしれない。村上春樹の小説世界において、アジアはもっともなじみの薄い存在である。こういうと、反論が予想される。確かに、村上の最初の短編小説「中国行きのスロウ・ボート」には3人の中国人の話が語られているし、彼のデビュー作である『風の歌を聴け』には、「ジェイ」という中国人バーテンダーが登場する。村上春樹はかつてこう述べたことがある。「自分でも不思議なのだが、なぜ小説に登場するのが韓国人でなく中国人なのか?僕はただ僕の記憶の影を書き込んでいるだけなのだ。僕にとって中国は、書こうとして懸命にイメージするものではなく、『中国』は僕の人生における重要な『記号』なのだ。」だが、自ら「重要」な対象として位置づけている割には、彼の数多くの小説のなかに中国は、エスニシティがほとんど消去され、また日本社会の少数者として匿名化された何人かの中国人登場人物によって、かろうじて描出されている、といってよかろう。『風の歌を聴け』において、日本人青年の「僕」は中国人バーテンダーのジェイとこんなセリフを交わす。──僕のおじさんは中国で死んだんだ──そう、いろんな人間が死んだものね。でもみんな兄弟さ。戦争の記憶をめぐる話題は、「死」という、人間的な営みに収束している。「いろんな人間が死」ぬ戦争自体も、人間的な営みに括られる。参戦して戦士した日本の兵士に、またその日本軍の銃に犠牲された多くの中国人について、「でもみんな兄弟さ」と締めくくった中国人バーテンダーの発言が、歴史を振り返る認識主体として発せられたとは考えにくい。むしろ、歴史のなかのリアリティにたいする一切の判断を停止した地点でこそ可能な言説と思わざるをえない?。村上小説のなかの中国人や韓国人が、「生の他者」として登場したこと実例を、寡聞にして私は知らない。彼らは一概に日本語か英語に達者で、日本社会に規範をもきちんと弁えた、敢えていえば、普遍的な文明・文化システムに「飼いならされた」少数者として登場するだけである。当事者のエスニシティをあらわす民族名や民族言語も消されている。その代わり、「ジェイJay」(米軍基地で仕事をしていたとき、米軍からそう呼ばれたという)や「ミュウ」という文化や血統の帰属性を抹消された無国籍な名前が与えられている。すみれが恋に落ちた相手の女性の名前は「ミュウ」という。みんなは彼女をその愛称で呼んでいた。本名は知らない。国籍からいえば韓国人だったが、20代の半ばに決心して学習するまで韓国語はほとんど一言も話せなかった。日本で生まれ育ち、フランスの音楽院に留学したせいで、日本語のほかにフランス語と英語を流暢に話した。いつも見事に洗練された身なりをして、小さくて高価な装身具をさりげなく身につけ、12気筒の濃紺のジャガーに乗っていた。最初にミュウに会ったとき、すみれはジャック・ケルアックの小説の話をした。当時彼女はケルアックの小説世界にのめりこんでいたのだ。(『スプートニクの恋人』7ページ)186