ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
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RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌
WASEDA RILAS JOURNALめであったと考える。その理由として、まずビザンティン美術ではトマスの不在とそれに続く腰帯授与のエピソードは多く描かれず、殆どが西欧の影響によるポスト・ビザンティン期になるものであることが挙げられる。またカリエを14世紀に改修し、モザイクとフレスコで荘厳したのは帝国の宰相テオドロス・メトキティスであり33、学識の高かった彼がイタリア・プラートでの動きを知っていたとしても問題ない。メトキティスは、首都の失われた聖遺物を想い、それを誇らしげに祀るイタリアの小都市に憤りを感じ、「聖母の眠り」にかつて首都にあった聖遺物を想起させるエピソードを描かせたのではないか。この考えに立つ場合、なぜ腰帯を受け取るトマスという、より具体的なモティーフを描かなかったのかという問題が残る。カリエと同時期のマケドニア共和国、スタロ・ナゴリチャネStaro Nagori?aneのスヴェティ・ギョルギSveti Georgij(聖ゲオルギオス)聖堂には、マリアから腰帯を受け取るトマスが描かれており(図8)、モティーフは既に確立していたと言ってよい34。考えられる理由は、まずカリエの「聖母の眠り」が登場人物を少なくすることで均整のとれた構図を実現しており、メトキティスの美的感覚が余計な図像の挿入を嫌ったのではないか。オフリド、パナギア・ペリブレプトスのように小さな雲に乗るモティーフであれ、スタロ・ナゴリチャネのようにより大きな図像であれ、画面上部は窮屈になり左右対称性が崩れることは避けられない。説明的であるがゆえに煩雑な画面より、語るところが少なくとも均整の取れた画面構成を選んだの図8スヴェティ・ギョルギ聖堂スタロ・ナゴリチャネ、マケドニア1316-18年ではないかだろうか35。さらに、被昇天するマリア、すなわち肉体の被昇天を描くことへの忌避があったのではないかと考えられる。西欧ではマリアの臨終の祭日(8月15日)は聖母被昇天祭であり、生神女就寝祭として、聖母の眠りを祝う正教会とは対照をなしている。最大の差異はマリアが肉体を持って天に上がったかどうかであり、正教会は正式にはこれを否定している36。マリアの腰帯が聖遺物となっていた点から、公式見解が実際には揺らいでいたことが推察されるが、首都の要職にあったメトキティスが献堂する聖堂の、しかもナオスの図像にあっては、その見解に従わざるを得なかったのではないかと思われる。そこでメトキティスは、トマスを描かないといういわば消極的な手段によって、マリアの腰帯授与のエピソードを示唆したのだと考えられるのである。ラ・マルトラーナと同じく、十二使徒が12人でないことには、一瞥しただけでは気付かない。だが11人の使徒に気付いた者は、トマスの不在と、彼が授かり、かつて首都が誇った聖遺物である腰帯に思い至ったに違いない。このような控え目な示唆は、正教の教えへの配慮と同時に、人数の欠けに気付く者とだけ共有しようとした学識高いメトキティスの遊びであったと言えるかもしれない。コーラ修道院はキリストに捧げられた聖堂ではあるが、14世紀の改修では多くのマリア伝がモザイクで描き出され、彼のマリアへの信仰が窺える。そのようなメトキティスにあっては、首都が失った腰帯への想いもより強いものであったと想像されるのである。本論では、ビザンティン聖堂に描かれた「聖母の眠り」を対象として、十二使徒がどのように描かれたかを考察した。「眠り」が聖堂装飾プログラムにおいて重要な位置を占めることは既に指摘されているが、十二使徒図像のひとつとして考えた場合も、「眠り」は大きな意味を持つことが明らかになった。キリスト教会における十二使徒の重要度に比して、聖堂装飾の主題としての十二使徒図像は多くない。「聖母の眠り」はその内の一つであり、同じく十二使徒図像でかつ聖堂内の中軸図像でもある「聖霊降臨」などの他図像との関連性も指摘できる。また「聖母の眠り」はマリアの臨終を描いただけではなく、十二使徒の最後の集いとしての図像とも見ることができた。一方、敢えて十二使徒の人数を変更し82