ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALよく示している。「船が横浜港をめざして進んでいたとき、そのとき読んでいた本にかかれていたいろいろな言葉が私の指を通過して、わたしの内部に入り込み、そこに浮遊していたもののなかで、本当に時宣にかなった存在感を持つようになった。『東と西は狂乱の海に翻弄される二匹の竜のごとく、生命の宝玉を取り戻そうとむなしくあがいている』、また『魚のよく泳ぎ、鳥のよく飛ぶことは私も知っているが、竜の力に至っては、私の力では到底図ることもできぬ』、そして『「物質を開き、物をつくり出せ」と老子は言った』という言葉。わたしはこれらの言葉を、何度も繰り返し言ってみた。」(44)荒川はアメリカに住み海外で活動を展開しつつも、その間、東西の文化の相違はもとより、互いの文化の受容や理解における明確な温度差をつねに体験し、痛切に感じ過ごしていたことを示す。しかもこうした異文化についての無理解や衝突こそが、ヒロシマに象徴される戦争へ、すなわち、人間を死へと追いやる原因と考えていたことを表わしている。荒川のアメリカにおける作品には、直接的に戦争のイメージは見出されないものの、その制作期においては、戦争に至る要因としての異文化対立が強く意識されていたことがわかる。荒川においては、自身の具体的体験から、異文化対立と戦争とが分かちがたく結びつき、異文化対立=戦争という図式がつくられたと言えよう。こうして荒川は、太平洋を越え、アメリカと日本、西洋と東洋を往来するなかで、どちらの側にも偏向することのない、新たな価値の創造者として「コーデノロジスト」という自らの姿を生み出したものと考えられる。IVおわりにー新たな価値の創造へむけて荒川が「死なないため」の思想を展開する際に、近年になってとりあげたキーフレーズに「死ぬのは法律違反です」というものがある(45)。2007年にマドリン・ギンズとの共著で出版された著作において使われたもので、正式な著作名は『死ぬのは法律違反です死に抗する建築21世紀への源流』という。それにしてもなぜ「死」は「法律」によってまで否定されなければならなかったのか。この著作では、死が自らの戦争体験と結び付けられていないとはいえ、これまでの考察をもとに考えてみると、その発想の原点には、やはり、荒川の戦争体験が想起される。一般市民を無差別に死に導いた空襲や原爆に加え、さらには、特攻隊やひめゆり学徒隊に代表されるように、そこでは死は、積極的に称賛し自ら受け入れなければならないものでもあった。また、近年においても中東を中心に世界における武力衝突はなくなるどころではない。このように自ら体験した太平洋戦争をはじめ、現在進行形で世界各所にみられるあらゆる戦争で美化される死を否定するためには、「生きるため」であるより「死なないため」でなければならず、荒川が「死ぬのは法律違反です」と言うとき、それは、さらに確固たるメッセージとなる。戦時において、国家という「制度」が人びとを死へ追いやったことに対抗するには、「法律」という「制度」を持って死を否定しなければならない。「死ぬのは法律違反です」というフレーズは、人の力によってもたらされる作為的な死への絶対的反発となっている。ところで荒川の「死なないため」の思想は、戦時の常識をことごとく否定し、覆そうとしたが、それは同時に新たな価値の創造をも意味した。生物学的な死が、戦争の有無にかかわらず、人間に訪れる当然のものとして私たちの前にあるとするなら、荒川はその「死」までをも否定しようとする。戦時における死だけではなく、日常における「死」さえも乗り越える大きな「価値の転換」。これほど大きな価値の転換もないだろう。ここから、新たな「価値を創造」することこそが、荒川が究極的に意図するところでもあった。荒川が「転換」ではなく、「反転」という言葉を使う時、それはただの「変化」ではなく、絶対的な「転換」を強く意味している。そして荒川はその作品において、一貫してこれを示唆してきた。『棺桶』シリーズに見られた「死」には、「生」への「反転」が示唆されていたし、記号を用いた『図式絵画』や『意味のメカニズム』では、私たちが信じているイメージは、見方によっていくらでも「反転」することが意味されていた。荒川の龍安寺の庭では、まるで鏡のように、同じ庭が反映され反転されるなか、私たちは、伝統と現在、実態と幻影といった、両義的価値のなか、身体をもって、その間を彷徨わされ、養老の天命反転地では、ゆらぐ大地のなかで、天命を反転すべく身体の駆使を強いられる。私たちがこれらの施設で、転108