ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNALわれる。そのユダヤ人に対する敵対的意識が、十字軍からギリシア地域に伝播したのではないか、と言うのである。また11世紀末を通じて十字軍、あるいはその他の西欧勢力との間に、政治的、軍事的緊張が同地域で見られたことが、終末論的意識を強め「最後の審判図」の描かれる理由になったのではないか、とする。ただしエプスタインの論を具体的に裏付ける一次史料はない。現実に同地域で反ユダヤ的な動きがあったかどうかについては、エプスタインはカストリアにあった比較的大きなユダヤ人コミュニティーについて、後に同地域を訪れたユダヤ人の旅行記が触れていないことを理由に、少なくともユダヤ人の勢力が減衰していたのではないか、と結論している(17)。筆者はイェフォニアスモティーフが現実の反ユダヤ主義運動の直接の反映と断ずることはできないと考える。後述するように、ビザンティン帝国内では西欧に比して反ユダヤ的運動は穏やかであったと推測できるからである。一方で、ユダヤ人に対するネガティヴな感情が、単なる説話の絵画化以上にそこに表れているというエプスタインの推定には同意するものである。「眠り」図におけるユダヤ人の登場例として、マヴリオティッサの作例は早い時期にあたる。すなわちイェフォニアスは図像の定型として取り入れられておらず、手本を写すだけではない積極的な意思をそこに見出すことが可能であろう。積極的に描こうとする動機がない限り「眠り」にイェフォニアスが登場しないであろう理由として以下の二点が挙げられる。まず説話の図像化の観点からは、イェフォニアスは説話の重要な位置を占めていない。「眠り」図像において登場人物はキリスト、マリア、使徒に限られる場合が多く、その他の人物像はマリアの臨終の瞬間に立ち会う主教や女弟子、天使といった脇役である。臨終から前後するエピソードのモティーフとして最も多く描かれるのは雲に乗り参集する使徒であるが、これは宣教のため世界に散っていた使徒が臨終時に勢揃いしていることの説明となる(図3)。後期ビザンティン時代(13世紀~15世紀前半)、ポスト・ビザンティン時代(15世紀後半以降)に増加するのは「聖母被昇天」と「トマスへの腰帯の授与」のモティーフであるが、これは死の3日後に起きたとされる被昇天のエピソードを取り入れたもので、西欧からの影響が認められる(図4)。これらのモティーフと比較すると、ユダヤ人襲撃エピソードは説話中でもマリアの臨終に直接関わらないものであり、登場する必然性はないと言ってよい。また図像としても本モティーフは唐突に挿入されたような印象を否めない。イェフォニアスが描かれるのはベッドの手前が最も多く、そのため構図上他の人物より小さく描かれることが殆どである。不敬なユダヤ人をより小さく描くのは当然とも捉えられるが、一方で特に小さな壁面に描かれた作例はキリストやマリアと同じく中軸上を占めることも多く、ちぐはぐな配置と言える(18)。第二に、聖堂装飾全般との比較において、手を切断される人物像というものの特異性が挙げられる。ビザンティン聖堂壁画において、ユダヤ人の民族性が強調されて登場する主題はそもそも多くなく、ほぼイエスの受難に関わる主題に限定される。さらイェフォニアスのように傷ついたユダヤ人をモティーフとする図像は数少ない。一例として、「キリスト捕縛」において、イエスを逮捕しに来たユダヤ人たちにペテロが立ち向かい、彼に耳を切り落とされた大祭司の僕マルコスの姿が挙げられよう(図5) (19)。表現としては穏やかになるものの、「神殿の清め」において、神殿で両替商を営んでいてキリストに追い立てられるユダヤ人も似たものといえるだろうか(20)。しかしこれらの図像はいずれも福音書由来の説話の絵画化に主眼が置かれており、反ユダヤ的メッセージを強く打ち出そうとする意図を含むようには思われない。一方で聖堂装飾の主題として、人が痛々しく傷付く風景は珍しくない。しかしそれらは、キリストの磔刑、聖人の殉教図など、いわばよき流血とも言えるものである。先述した大祭司の僕マルコスについては、耳こそ切り落とされるもののそれは激昂したペテロの手によるものである。ペテロの個性が窺える興味深いモティーフではあるものの、やはりイェフォニアスの手の切断とは一線を画す。ユダヤ人の、それも神の意志による一種の罰としての流血は、イェフォニアスに限られるのではないか。イェフォニアスは聖堂装飾の中でも特異なイメージなのである。以上二点から、イェフォニアスは積極的な動機がなければ「眠り」図像に登場し得ないことを確認した。その積極的動機こそ、同時代的な反ユダヤ思想であると筆者は考える。その点で筆者の論旨はエプスタインのそれと重なる。しかしエプスタインの指146