ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL元論は否定されるべきもので、人間の経験は実は一元的なものであるとされた。またここでヴントの『生理学的心理学の原理』がよい例になる。「覚えておかなければならないのは、有機体としての生命は本当は一つであり、それは複数だがあくまでも一元である。よって、身体の生命過程を意識の過程から分けることもできないし、感覚に媒介される外の経験と、いわゆる『内面』の経験である自分の意識とを完全に別なものとして区別することはできない。」(11)ヴントは意識の内面と外面を、つまり内なる世界と外なる世界は区別できないと主張し、内面の意識と外の世界で認知される対象は一つの流れとして繋がれていると論じた。内面と外界、心と身体は単一で、一つの統一された体系をなすと論じた。漱石が読んだウィリアム・ジェイムズもほぼ同じように、人間の心理学的な経験は一元的なものだと主張した(12)。以前の心理学はデカルト的な主体性論と二元的な内面論を唱えていたが、新心理学ではそれが否定された。新心理学の内観否定とその一元論に反論した学者もいた。例えばイギリス人の心理学者ジョージ・スタウトの『分析的心理学』がある。スタウトは一方で脳や神経を実験室で研究する仕事の意義を認めながら、他方では心理学にとっては自己内省のほうが重要であり、内面と外面や心と脳の二元的な区別の必要性を主張した。東北大学附属図書館の漱石文庫に保存されているこの本に、こういった文章に対して漱石が懐疑的な書き込みを残している。「This isyour aim, not all the psychologists」(これは君一人の狙いで、心理学者全員の狙いではない)。他にもスタウトに反論するような書き込みが見られる。例えば、「Too bold !」(言い過ぎ!)や「I am verysorry Mr. Stout」(スタウト君、悪いけど頂けない)などがある。二元論的に自己意識を内観する哲学的心理学より、漱石は実験室で脳の構造を一元論的に追求する新心理学を選んだのであろう。新心理学の三番目の特徴は、意識の定義であった。新心理学によると、意識とはモノではなく、運動である。ウィリアム・ジェイムズの言葉を借りれば、意識は流れである。我々の精神活動は固定したモノではなく、持続的に展開する過程で、一つの連続する不断の流れとして外の世界から刺激が我々の知覚神経を通して我々の脳に到達し、脳や神経がその刺激に対して反応を起こして、その反応が運動神経を通して逆に我々の身体を流れ、その流れは最後に外の世界へ及ぶ。健康的な意識は絶え間なく流れ続く。その流れが邪魔された場合や流れが詰まった場合は病気になる。この立場を取ると、精神の病とはうまく流れない意識ということである。このように意識を一つの流れとして見なすことは、新心理学の一元論と裏表の関係にある。この流動的な流れのおかげで内面の世界と外の世界、そして心と身体は一つの回路に統一されている。逆に意識の流れが急に動かなくなれば、内面が外の世界から引き離されることになってしまう。新心理学の立場から見ると、そういう状態は病的であるのだ。『文学論』と意識の流れ漱石の『文学論』はこの一元論的な思想と意識が外の世界と内面の世界を一つの流れとして見なす新心理学をもって、文学の本質を定義しようとした(13)。そして彼の有名な(F + f)という式が生まれる。「凡そ文学的内容の形式は(F+ f)なることを要す。Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象又は観念の二方面即ち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものと云い得べし。」(第一編・第一章)図1・意識の波(漱石の図にFとfを書き加えたもの)漱石は上の図をもってこれを説明する。意識の流14