ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

水に生まれる―マダバの聖使徒聖堂「タラッサ」のメダイヨンと銘文―リューワーもこの考えを受け入れた(8)。辻佐保子は銘文が詩編の引用というよりは慣用句化した呼びかけであり、図柄との組み合わせによって天・地・海の創世記的なまとまりを成立させたと考えた(9)。ピッチリッロは、サレーとバガッティ同様、銘文の冒頭を詩編の引用とし、その内容は天地創造と神の力を示すものであり、神のみが寄進者に生命を与えることができると述べた。キーレリヒは、聖堂に天地創造を表すことで、世界の創造と聖堂を作る行為の同一視が行われたと考えた。マグワイアもキリストの力と天地創造の要素の結びつきを示した例として、このモザイクを解釈した(10)。以上の研究においては、創造主への呼びかけである以上、銘文に明記されずとも、天と地に加え、海も当然のこととして意識の内にあるという解釈が行われてきたといえる。一方で、生命に満ちた海のイメージも古来、文学や美術作品に示されてきた。プリニウスの『博物誌』では、次のような記述が見られる。海というものは広大な広がりをもち、上方から生殖のもとを受け、たえず子孫を生み続けている領域であるから、巨大量の栄養を生産している。だからそこには種子と第一原理とが、時にはこういう具合に、時にはああいう具合にと、互いにからみ合い、互いに折り合わされ、風の作用によるかと思えばこんどは波の作用によるというふうにして、現在のおびただしい数の奇妙な動物がいるのだ(11)。北アフリカに多く残る、海や魚、漁を題材とした床モザイクも、生命力豊かな海の表現と見なされる(12)。海の擬人像と生き物とが示された、マダバのモザイクにも同様の感覚が反映されたと筆者は考える。海の生命力に与らんと寄進者が願ったならば、海の図像は銘文前半の創造主への呼びかけよりは、後半の「生命を与えよ」という祈願の方に強く結びつくといえよう。「生命を与えよ」という文言については、再生への願いと解釈する。存命の寄進者が願う「生命」とは、死して再びよみがえることと考えられるためである。カルタゴの教父テルトゥリアヌス(160頃-220年頃)は、洗礼において水が命を与えると語った。これは水に身を浸すことによる生まれ変わり、再生を意味する(13)。タラッサの図像に再生の願いを託しうるか、その可能性を探ることを本論文の目的とする。マダバのタラッサのように、人物像の周囲に海の生き物を配した図像は、髯を生やした男性のオケアノス、女性であればテテュスの作例が多い。オケアノスは陸地を取り巻く水の流れ、テテュスはその妻で海の女神とされる(14)。これらの図像を手がかりに考察を進める。テテュス、もしくはタラッサを表したと思われる図には銘が添えられていない例もある。「タラッサ」という銘のない図に関し、本論文では便宜のため、一律にテテュスを表したものとして扱うこととする。マダバのタラッサは、テテュスを踏襲した図像と考えられてきた(15)。最初にテテュスの図像を検討し、これらが水にちなんだ場に多く配置されてきたことを確認する。テテュスおよびタラッサの図像は海だけではなく、水の表象としての面も持つと考えられる。水と生のつながりを顕著に表す儀式として、洗礼が挙げられる。洗礼は入信の儀式であるが、水によって罪を浄化し、キリスト教においてはキリストの死と復活をなぞる意味を持つ。続く章では教父らの言説から、水による再生および海に言及したものを通覧し、当時の意識を探る。最後に、テテュスと同様、海もしくは水を表してきたオケアノスの作例を確認する。すべての川、泉、湖はオケアノスの水を引くと考えられていたが、一方でオケアノスは動植物と一体化した姿でも表されてきた。魚など海の生き物と共にありながら、植物の葉をまとうオケアノスは生命を育み、豊穣をもたらす水の象徴と推測される。オケアノスを題材とした美術作品を検討し、この主題が単に海だけではなく、生命を生む水の表現として用いられてきたことを確認する。以上の考察から海と水、生命の結びつきが意識されてきたことを確認し、それがタラッサの図像と銘文の組み合わせにも反映されていることを示す。2.テテュスとタラッサ考察に先立ち、「タラッサ」のモザイクを詳細に見ておきたい(図3)。メダイヨンのほぼ中央に波打つ水平線が走り、海面から女性が上半身を出す。159