ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

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概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

WASEDA RILAS JOURNAL頭上の銘から海の擬人像とわかるタラッサの周りには、空想的な海の生き物や魚、蛸が配され、海の怪獣ケートスらしき姿も背後に見える。タラッサは右腕と手首に装身具をつけているが、髪には飾りはない。タラッサは左肩から衣を垂らし、舵を抱える。波間に隠れた衣の先がさらに続くように見えることから、この像は全身像を転用したものと推測される。舵はテテュスやオケアノス等、海に関連する神々に添えて表されることが多い(16)。タラッサは右手を胸の前で構えているが、この手がアンティオキア郊外のヤクトで出土した、「メガロプシュキア」の銘を持つ女性像の手に似ているという指摘がなされた(17)。同様のポーズをとる他の作例として、6世紀の銀皿に表された女性の座像を挙げたい(イスタンブール考古学博物館、図4) (18)。テテュスの作例は胸像が主であり、手の表現を確認できるものは少ない。銀皿の女性像の手の位置はメガロプシュキアのそれに近いが、体の左側に掛かる衣や杖の位置などに、モザイクのタラッサとの共通点が見られる。甲殻類の鋏もしくは翼を頭につけ、海の生物に囲まれている女性はテテュス、もしくはタラッサと見なされてきた。他の作例との比較においては、上半身が表されていること、および正面観であることが、マダバのタラッサの特徴といえる。甲殻類の鋏や翼が頭部にない点も、この作例特有の表現である。1967年に聖使徒聖堂の調査を行ったルクスは、テテュスを扱ったアンティオキアのモザイクとの比較を行った(19)。アンティオキアで出土したテテュスのモザイクに関する論文を著したウェイジスは、広範囲にわたるテテュスとタラッサの作例を示した。「タラッサ」の銘を付した作例は、ウェイジスによれば3世紀末頃から始まったと考えられる(20)。図像の上では判別がつかないことから、両者を分けるのは銘のみとも言える。テテュス、もしくはタラッサを表したモザイクは、両論文で列挙されたもの以外に、イスラエルで見つかった2世紀頃のヴィラのモザイク、およびスペインで発見された4世紀後半のモザイク、5-6世紀の作と思われる、不完全ながら「タラッサ」らしき銘の入ったチューリッヒ大学所蔵のメダイヨン(図5)等がある(21)。イングランド、サマセット州のヴィラで発見された4世紀の作例は現存しないが、モザイクを記録したリトグラフが残る(22)。モザイク以外の例では、ディオスコリデスの『薬物誌』写本挿絵の珊瑚(fol.391v)の根元に、舵を手にし、ケートスに寄りかかる女性の全身像が添えられている(23)。水にちなんだ場所には、ヴィーナスやオケアノスなどの海に関連した神、もしくはオデュッセイアといった、海に関わる主題が配される場合が多い(24)。テテュスを扱ったモザイクも、しばしば浴場に用いられ、あるいは浴槽に近い場所に置かれたと指摘されてきた。例として挙げるアンティオキア出土のパネルでは、中央に女性の肩から上が表され、その周囲を海の生き物が取り巻く。女性の額からは開いた翼が生えている。彼女の傍らには舵があり、「テテュス(ΤΗΘΥC)」の銘が添えられている(図6) (25)。浴槽に用いられたとされる、このテテュスのパネルは八角形であるが、これはローマ期の噴水や浴槽に見られる形であった。時代の宗教がキリスト教へと移った後も、八角形の洗礼槽は引き続き用いられ、この形と水の結びつきの深さを示す(26)。テテュスは、夫であるオケアノスと共に表されることも多い。アルメニア東部のガルニにあった、3世紀後半の浴場のモザイクには、魚の背に座るテテュスの全身像が表されている。破損により頭の一部を残すのみとなったオケアノスが隣におり、魚やプットーが周囲に配されている(27)。この作例のテテュスは、舵ではなく鏡を手にしているように見える。海の女神であるテテュスが水に関わりのある場に多く表されてきたことが、こうした作例から確認できる。魚などと同様、テテュスの図像は水を想起させるものであり、これと同質と思われるタラッサにも、水のイメージは反映されると考えられる。タラッサと、銘文の「生命を与えよ」という言葉の結びつきに関し、プリニウスの言葉に見られる、多種多様な生物を生み出す海の生命感に与らんとした、と考えることも可能である。その一方でテテュスおよびタラッサの図像が水を想起させる点も看過できず、さらなる検討が必要と言える。前述のように、存命の寄進者が願う「生命」とは、死して再びよみがえることと思われる。水を通して新たな生命を得る儀式に洗礼がある。この秘跡は水と生のつながりを顕著に示すものと言える。次章において、洗礼に関する文章に語られた、生命を与える水の作用を見ることとする。同時に海に関わる記述も確認し、水と海に対する当時の意識を探る。160