ブックタイトルRILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

ページ
163/542

このページは RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌 の電子ブックに掲載されている163ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌

水に生まれる―マダバの聖使徒聖堂「タラッサ」のメダイヨンと銘文―3.洗礼における水と海水に身を浸す洗礼は、信者を浄化し、死と生を経験させる。ヨルダンのネボ山にある、モーセの記念堂に付属する北の小祭室(530年)の銘文は、隣接する十字型の洗礼槽に言及しているが、それにあたって用いられたのは「再生の水槽」という言葉であった(28)。パウロは生まれ変わりの洗いについて語り(テト3:5)、コンスタンティノポリス総主教であったヨアンニス・クリソストモス(344/349-407年)も、パウロのこの表現を引用したが、ネボ山の銘文の表現も、パウロの言葉を想起させるものと言える(29)。以下、生命と水の関わりを探るため、洗礼に関する教父の言説を見てゆく。創世記で語られる天地創造において、神は水を集め、それを海と呼んだ(1:10)。次いで生き物を生み出すよう水に命じる(1:20)。洗礼を扱った最初の著作とされる『洗礼について』の中で、カルタゴの教父テルトゥリアヌスは次のように述べた。神は最初に水に対して、生き物たちを生み出すことを命じられた。原初の水が生きたものを生み出した。〔だから〕洗礼において、水が命を与えることを認識しても、それはなんら驚くべきことではないであろう(30)。この言説においては、生きるものを最初に生み出したのは水であるゆえに、洗礼の水は生命を与える力を持つとされる。水は他のあらゆる要素に先立って古く尊重すべきものであるとして、テルトゥリアヌスはその重要性と、命を与える力を強調した。ミラノの司教アンブロシウス(340頃-397年)は、この世を海、信徒を魚になぞらえた。洗礼に関しては、水に身を浸すことは埋葬に近く、死を体験することであると語った。アンブロシウスによれば、水に沈むのはキリストと共に葬られることであり、創造の初めに生き物を生んだ如く、水は身を沈めた者を浄化し再生させる(31)。エルサレムのキュリロス(313頃-387年)も、洗礼は死と生を同時に経験することであると述べた。キュリロスによれば、洗礼の水は墓地でもあり、母胎でもある。キリストの死と復活をなぞることで罪が浄められ、救済が行われる(32)。これらの教父は、水を通して死から生に至ると語っており、水に新たな生命を与える力があると考えた様子が窺える。カエサリアの教父バシリオス(330頃-379年)は、洗礼はキリストと共に葬られることとしながらも、水に関しては多少異なる見方を示した。洗礼を受ける者は、いわば水に埋められ、キリストの埋葬を真似るのであるが、これに生を吹き込み復活させるのは聖霊(プネウマ)の仕業である。バシリオスによれば、死のかたちを与えるのが水、命を与えるのが霊である。水に恵みがあるとしても、それは水の本性ではなく、霊によるものだとして、バシリオスは霊の聖性を強調した(33)。モプスエスティアのテオドロス(350頃-428年)も、霊が水に働きかけた結果として、水が洗礼の場での母胎となりうると述べ、両者のはたらきを区別した(34)。これらの言説においては、生命を与えるのはあくまで霊とされ、過度な水の尊重は慎重に回避された。水の、生命を与える作用を認めたテルトゥリアヌスも、水の賛美に陥らないよう慎重な姿勢を示した点においては同様であった(35)。ヨアンニス・クリソストモスは、ヨハネ福音書の「だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:5)という部分の解釈において水の重要性に触れ、水は霊と共にある、必要不可欠なものであるとした(36)。生命を生み出した天地創造の水および浄化し再生する水のイメージが繰り返し語られてきたことを、洗礼に関わる言説は示している。そこでは水の浄化する作用に関する見解は共通しているものの、生命を与える力に関しては肯定・否定双方の見方がある。水と生命との結びつきは意識されていたが、入念に水の賛美を避けるのは、当時存在したという、水を過度に重視する一派を警戒する意味もあったと思われる(37)。次に、洗礼の文脈で語られる海に関し見てゆくこととしたい。最初に思い出されるのは紅海渡渉を洗礼の予型と見る言説である。複数の教父がこの点に触れており、例えばテルトゥリアヌスは水の洗い清める作用に触れたうえで、この予型について説明を行った。彼によれば、水を通じて悪が滅び、民が解放されたため、このエピソードは洗礼を示す。テルトゥリアヌスは、洗礼に用いる水についても語っているが、それによれば、水にはその聖性ゆえに区別はなく、海や溜め池、川や泉、湖や浴槽のどこで洗161